空から見た 小牧・長久手の戦い

【動画】空から見た 小牧・長久手の戦い

①空から見た名古屋Vol.2
②空から見た名古屋 2017
③空から見た 名古屋高速道路
④空から見た 桶狭間の戦い
⑤空から見た 小牧・長久手の戦い

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シリーズ小牧・長久手の戦い7話索引

賤ヶ岳の戦いで、秀吉の後押しで柴田勝家、織田信孝に勝利した二男・織田信雄は、 尾張・北伊勢・伊賀を領土とし、三法師の後見として焼失を免れた安土城二の丸へ入城天下統一をもくろむ秀吉に退去させられ両者の関係は悪化する。
また、秀吉の 懐柔策は、織田信雄の重臣、3家老に及び、この三者の裏切りを疑った信雄は、 三人を処刑、信雄は徳川家康に援軍を求め家康もこれに応じ、浜松から8000の軍勢を率い清洲へ進軍 小牧長久手の戦いの火蓋が切られる。
清洲城に到着した家康のもとに、織田家の重臣池田恒興が秀吉側について 犬山城を占拠したとの報が届く。犬山城は織田信長の叔父信康が1537年に築城した木曽川を望む城 天守閣は現存する日本最古のものである。徳川家康は1584年3月15日、清洲から小牧山に進み本陣を置いた。
小牧山城は美濃攻略のため1563年築かれた。織田信長の拠点として城下町も作られたが稲葉山城(岐阜城)を奪取後、廃城となった。
秀吉軍の森長可(ながよし)は 小牧山を奪取すべく羽黒に兵を進めた。羽黒城は建仁元年(1201) 梶原影時の孫、梶原影親により築城されたといわれる。その末裔梶原景義は、織田信長に仕えたが本能寺の変で信長に同行し、梶原景義は討ち死、梶原家は絶えた。秀吉はこの城を修復し合戦に備えた。秀吉軍の先鋒森長可は、3000名の軍勢を率い羽黒城の南、八幡林に布陣していた。家康軍は森長可の動きを察知して、酒井忠次、榊原康政ら5000の兵で急襲。森長可の軍勢は四方を敵に囲まれる。野呂助左エ門は森長可の身代わりとなり息子の助三とともに討ち取られた。
羽黒の戦いの勝利の後、家康は小牧城を大規模に改修。 土塁、空堀を築き決戦に備えた。 また小牧山の東側に秀吉軍の南下を防ぐため、蟹清水、北外山、宇田津、田楽などの砦を配置した。1584年3月21日、秀吉は大阪城を出陣、犬山城を経て、楽田に本陣を構えた。徳川軍の強固な防衛線に驚いた秀吉は、小松寺山砦、小口城、内久保砦、岩崎山砦、二重堀砦、青塚砦、外久保砦を築き、徳川軍に対抗すべく兵を配置した。双方の守りは堅く膠着状態が続いた。
4月4日、膠着状態を打破するために池田恒興は、中入り作戦を秀吉に進言。この作戦は隠密裡に敵の陣を迂回して手薄になった家康の本拠岡崎を攻めて、家康を小牧山から誘き出すもの。背後を突かれるリスクも大きかった。池田恒興父子6000人が先鋒 森長可以下3000人が次鋒として岡崎に向かった。第三軍として堀秀政3000人、第四軍三好秀次(羽柴秀次)8000人も続いて出陣。この動きを察知した徳川家康は、丹羽氏次を案内役に、榊原康政1550人、大須賀康高1850人、水野忠重800人を先発に、自らも井伊直政3000人を先鋒にして家康(本隊)3300人、織田信雄3000人の部隊を率いて敵の背後を突くため、勝川を経て小幡城へ向かった。家康は小牧長久手の戦いにあたり 廃城された平山城の小幡城を修復していた。
家康は小幡城で軍団を二分した。徳川家康・織田信雄隊は池田恒興・森長可隊を追走、長久手へ向かい色金山に本陣を構えた。一方、榊原康政・大須賀康高ら別働隊は、西軍しんがりを務める三好秀次隊を追走。4月9日早朝、高さ25m程の丘、白山林で朝食のため休息中の秀次隊を急襲。不意を突かれた秀次隊は長久手方面に敗走し、忠臣木下勘解由は秀次の代わりに殉死した。
やがて色金山で軍議をしていた家康のもとに、白山林での戦勝の報が知らされる。家康は堀秀政と池田恒興・森長可隊を分断するため、本陣を色金山から御旗山へ陣を進める。秀次軍の前方で駐留していた堀秀政は 白山林からの多数の鉄砲音を聞く。敗残兵が続々と長久手に流れ込むのを見て徳川軍の追撃を知った堀秀政は、兵3000をに分散し待ち伏せる。香流川の対岸に大須賀康高・榊原康政の軍が突入、桧ケ根からの銃弾を浴び岩作城方面に敗走する。追撃をもくろむ秀政が目にしたのは、御旗山の家康の馬印の金扇。堀秀政は追撃を諦め全軍を退却させた。
家康軍別働隊による白山林攻撃が始まったころ、池田恒興父子、森長可の軍勢は岡崎をめざし岩崎城付近に進軍していた。岩崎城を守備するのは丹羽氏重と加藤景常。200余名の守備隊は銃撃を浴びせ挑発。この挑発にのった池田恒興は作戦を変更し、本来ならば通過するはずの岩崎城の攻撃を命じる。約3時間の戦闘の末岩崎城は落城。だが、この戦勝が秀吉軍の敗因の一つとなった。ほぼ徹夜の行軍で疲労した池田軍は、付近で朝食をとり、首実験を行っていた。まさにその時、三好秀次軍敗戦の報が入り、池田恒興・森長可の軍勢は長久手へと戻る。
そのころ長久手では、家康軍が御旗山から前山に陣を構えて、秀吉軍に対し万全の体制を備えていた。左右に、井伊直政軍3000、家康本隊3300。それに予備隊織田信雄軍の3000が、池田、森両軍を見下ろす山の斜面に陣を張った。一方、池田、森軍も仏ヶ根付近まで進軍。双方、9000人の軍勢を率いてにらみ合った。合戦が始まると湿地帯に布陣する秀吉軍は、山の傾斜地から放たれる銃弾に見舞われた。まず、森長可が眉間に銃弾を受けて討死し、池田恒興・元助親子も討ち取られた。かろうじて池田輝政は戦線を離脱し落ち延びた。戦いは徳川軍の大勝利に終わった。
長久手での敗戦を知った秀吉は、長久手から小幡城に帰還した家康を討つべく4月9日夕刻、楽田から龍泉寺城に入城し明朝の小幡城総攻撃を命じた。 家康隊はこの情報を察知し、夜陰にまぎれて小牧城に帰還した。明朝この事実を知った秀吉は、追撃をあきらめ小牧・長久手の戦闘は終わった。
長久手で家康に敗退した秀吉は、家康と同盟を結ぶ織田信雄を攻撃をする戦略を取ることにした。秀吉の猛攻に恐れをなした信雄に秀吉は伊勢、伊賀の領土の半分を返還することを条件に、信雄に和議を申し入れ信雄はこれに応じ和議が成立。織田信雄を支援する名目が和議により無くなり家康も戦の継続を断念、兵を引いた。以後、秀吉は天下統一に突き進むことになる。

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