沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第4回「丸く栄える」

丸く栄える

丸栄百貨店の前を通り、明治屋に向けて歩いてゆく。歩道の端には、明り取りがついている。明り取りはバス停の前まで続いている。百貨店の建物は、明り取りが付いている部分だけ、わずかに歩道にせり出している。明り取りが付いている部分は、旧三星百貨店の部分だ。そして、明り取りのない西側は、昭和三十一年に改築された部分である。

広小路通りをはさみ丸栄の前に建つ栄町ビルは、大正四年にこの地に進出してきた十一屋百貨店が建っていた部分である。 丸栄百貨店は、十一屋と三星が合併してできた百貨店だ。

十一屋の歴史は古い。『名古屋府城志』は十一屋の始祖小出庄兵衛について、次のように伝えている。

玉屋町十一屋庄兵衛先祖小出庄兵衛ハ元和年中摂州音羽村ヨリ名古屋ヘ引移リ承応三年、当町ヘ移リ小間物商ヒヲシ来レリ

小出庄兵衛が玉屋町で開いた十一屋は、伝馬町と袋町筋との間、本町通りに面して建っていた。幕末には小出家は、関戸、伊藤次郎左衛門、伊藤忠左衛門、熊谷、内田、岡谷家と並び、御用達商人七家に入る名古屋屈指の資産家であった。

  • 大正八年の四階建て洋風建築に改築後の十一屋

    大正八年の四階建て洋風建築に改築後の十一屋

  • 鉄筋コンクリート五階建てに改築後の十一屋(昭和8年頃)

    鉄筋コンクリート五階建てに改築後の十一屋(昭和8年頃)

大正四年、玉屋町から栄町へ十一屋の進出を決断し、木造二階建ての店を構えたのは、十一代小出庄兵衛だ。彼はさらに、大正八年にはこの店を木造四階建ての洋風建築に改築する。大正十年には、木造の店舗を鉄筋コンクリート五階建てにする。当時の従業員数は三百五十人であった。 創業の月日にちなみ大正十一年十一月十一日には、商号を十一屋呉服店から株式会社十一屋と改めた。

昭和十二年三月、名古屋港開港三十周年を記念する汎太平洋平和博覧会が開かれた。それに先立ち十一屋は社屋を近代的な建物に一新した。『新愛知新聞』の九月一九日号に次のような記事が載っている。

広小路最大を誇る十一屋デパートの増築は汎太平洋博覧会の前景気のトップを切って竣工し、愈々十月一日新館開きが行はれる。地下二階、地上七階の鉄骨鉄筋コンクリート建で古来の商舗風を加味し、売場総面積三千坪といふ堂々たるもので、名古屋広小路にも初めて一流デパートが実現した訳で、広小路の賑盛、文化向上、消費階級の利便への影響は大きいといはれる。

「広小路初めての一流デパート」と報道された十一屋の関係者の心胆を寒からしめる出来事が起った。十一屋の真向いに新しいデパートが建つというのだ。新しいデパート三星の設立の経緯を梶浦斉は『丸栄三十年史』で、次のように語っている。

私が丸栄の前身三星の創立事務所に配属されたのは昭和十二年であった。事務所は車道の八木富三氏の本宅前の一戸を借受け八木氏以下四名で創立事務が始められた。 当時栄町界隈は夏の夕涼に植木市がたって浴衣姿のお客が行交い名物の屋台が広小路の両側をぎっしり埋めて情緒豊かな風物詩をかもしていた。その植木市の跡(現丸栄本館)に清水建設によって施工が始められた。
元来名古屋という土地柄は封建的でかつ排他的な事で有名だった。現在の丸栄本館の土地は当時八木合資会社の所有であって百貨店の三越が進出を企だてたが中京財界に押切られて失敗に終ったといい伝えられていた。その後を狙ったのが丸物初代社長中林仁一郎氏でかねてより中京進出の希望に燃えていたが前述の事情もあってなかなか話しがまとまらなかった。
中林氏は京都の丸物本店の土地が東本願寺からの借地であったので大谷家とは親しい間柄であった。そこで大谷家の一族である大谷瑩昭氏に事情を話し賛同を得て、名古屋の東別院にて先代伊藤次郎左衛門氏と懇談、丸物の名古屋進出を伝え併せて協力方を要請し、大谷、中林、伊藤の三者は完全に意見が一致して、丸物の中京進出が確定したのであった。

地上三階、地下二階、八千坪の三星百貨店は、昭和十四年五月二十日に開店した。正面入口は二階まで吹き抜けになっており、一本一万円もする大理石の大柱が六本並び立っていた。 昭和十六年、太平洋戦争が勃発、戦局はしだいに厳しくなってゆく。昭和十七年五月、百貨店整理統合要項が発せられた。統合の第一号となったのが、十一屋と三星であった。 統合された新会社丸栄は、昭和十八年八月に発足した。売場は旧十一屋の建物に集約し、旧三星の建物は名古屋貯金局に賃貸をする。

昭和二十年三月十二日の空襲で、旧十一屋の建物は焼失する。十九日には旧三星の家屋も灰塵に帰する。 八月十五日、敗戦を迎えた。焼跡を整備し、旧十一屋の一階部分に進駐軍専用の土産品売場、食堂、ビヤホールを設けた。十二月三十日には、いちはやく十一屋の北側の部分に丸栄会館を建設した。収用人員四百名の映画館「丸栄会館」は娯楽に飢えていた人々で、いつも満員の盛況であった。 昭和二十一年八月には、旧三星の西側の土地に二階建て四百坪の店舗を新築、さらに翌年の六月からは旧三星の地でも営業を開始する。

昭和二十七年九月二十八日、村野藤吾設計、清水建設施工の鉄筋コンクリート造り地上八階、地下二階の増築工事が完成した。戦後名古屋で初めてのエスカレーターが設置された。エレベーターには、東郷青児の明るいモダンな絵が描かれていた。

昭和二十八年十月一日の新装なった丸栄の開店、翌年のオリエンタル中村と名鉄百貨店の開店、昭和三十年の松坂屋の増築と、四つの百貨店の熾烈をきわめる競争が始まった。