JR飯田線野田城駅周辺
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野田城
野田城は永正五年(1508)菅沼家が居城とした。 戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が 繰り返され、天正十八年(1590)菅沼定盈が関東へ移封するまで続いた。
新城市街の史跡
長篠の戦で功績を挙げた長篠城主奥平貞昌は信昌と改名。徳川家康の長女亀姫と結婚し新城城を築城、長篠城から移り住んだ。これが現在の地名の由来となっている。
庚申寺を過ぎると橋向の石柱道標が建っている。伊那街道と遠州・挙母街道が交差する辻であった。
大善寺には亀姫の墓がある。宗堅寺は菅沼家の菩提寺。墓地には菅沼家歴代の墓がある。永住寺は新城の俳人太田白雪の菩提寺。桜洲県立自然公園のなかを豊川がゆるやかに流れている。
設楽ヶ原古戦場(JR飯田線三河東郷駅)
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設楽ヶ原古戦場
新城市街を過ぎて設楽原古戦場へと向かう。天正三年(1575)五月二十一日、織田・徳川連合軍と武田軍の激戦が連吾川を挟んでおこなわれた。馬防柵の構築と大量の鉄砲の威力が無敵を誇る武田軍の壊滅を招いた。
設楽原から長篠にかけて武将たちの墓が点在する。新城市設楽原歴史資料館の南隣にある信玄塚は武田軍を弔った大塚と徳川・連合軍側の死者を弔った小塚がある。毎年8月15日のお盆の夜おこなわれる「信玄原の火おんどり」は、合戦後、大量の蜂が発生し人々を苦しめ、武田の亡霊だと考えた村人たちにより松明を燃やして信玄塚で供養したのがこの祭りの始まりだと言われてる。
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長篠合戦古戦場(JR飯田線長篠城駅)
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長篠城の攻防
設楽原を北東にある長篠城では、武田勝頼が率いる1万数千の 武田軍が、わずかの手勢で城を守る奥平貞昌を包囲していた。貞昌は救援要請のため鳥居強右衛門を岡崎に送った。信長と家康はすぐに救援の軍を送り設楽原に陣をおいた。この知らせを受けた武田軍は包囲を解除、設楽原へ軍を進めた。鳥居強右衛門は、帰城の途中武田軍に捕らえられ「援軍来る」と味方に叫び、磔の刑を受け世を去った。
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長篠合戦のぼりまつり[Network2010]
長篠から海老へ(伊那街道) 周辺の名所 鳳来寺山 湯谷温泉
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長篠近辺の名所
豊川は、長篠城址のある所で宇連川と分岐して北上する。宇連川沿には風光明媚な湯谷渓谷、湯谷温泉郷などがある。宇連川と豊川(寒狭川)の中間にある鳳来寺山がそびえる。標高695m、鏡岩(屏風岩)に代表される岩肌を露出した美しい山。山頂にある鳳来寺には東照宮などがある。
海老から与良木峠へ(伊那街道) 四谷千枚田
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四谷千枚田
伊那街道を北上し海老の町並を過ぎ与良木峠に向かう途中の東側に鞍掛山の南西斜面に広がる山間集落四谷地区がある。千枚田は鞍掛山を水源に持ち、標高差は約210メートルにつくられた棚田。「四谷の千枚田」として知られている。