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- ❷江戸時代の名古屋城下を探索
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- ❻名古屋東部の歴史遺産
- ❼金山・熱田の再開発
名古屋市の東部に位置する、東区、千種区には、寺院、博物館、美術館、古城跡といった歴史遺産が点在している。この動画は、ドローンによる撮影を加味して紹介している。
名古屋市市政資料館
1881年(明治14年)、名古屋控訴裁判所が名古屋城の外堀通と本町通の交わる西角に開所した。その後、名古屋市の発展に伴って1922年(大正11年)、分散していた名古屋控訴院、名古屋地方裁判所、名古屋区裁判所を1つの合同庁舎にまとめるため旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所が建設された。1979年の裁判所移転に伴い取り壊しが検討されたが、保存を望む声に応えて、取り壊は中止され名古屋市市政資料館として利用されている。1984年(昭和59年)、国の重要文化財に指定されている。
----文化のみち----
名古屋城から徳川園にかけての一帯は、歴史的遺産の宝庫として「文化のみち」と呼ばれている。 近代産業の担い手となる起業家、宗教家、ジャーナリストなど多彩な人が去来し、交流する舞台となった。撞木館は、陶磁器商として活躍した井元為三郎が、大正末期から昭和初期に建てた邸宅。旧豊田佐助邸は、日本の発明王・豊田佐吉の弟、佐助の住居で木造の洋館・和館を併設したスタイルの邸宅。
文化のみち二葉館
日本の女優第一号として名をはせた川上貞奴と電力王と言われた福沢桃介が共に暮らした家。創建当時は、東二葉町にあったが、2005年(平成17年)、5年の歳月をかけ現在地に移転され文化のみち二葉館としてよみがえった。1階には旧大広間、旧食堂などが展示室として使われ、川上貞奴や福沢桃介の生活、生涯を映像や資料で紹介している。2階では、郷土ゆかりの文学者および文芸作品を紹介している。
建中寺
1651年(慶安4年)、第2代尾張藩主徳川光友が、父義直の菩提を弔うため建立した浄土宗の寺院。尾張徳川家代々の菩提寺となっている。現在は建中寺公園の南側には総門、また、境内には山門、本堂、開山堂、明王殿、経蔵、鐘楼、書院、旧名古屋商工会議所を移転した徳興殿、第2代尾張藩主徳川光友の墓、源正公廟、第3代藩主徳川綱誠の廟と御霊屋などがある。
徳川園と徳川美術館
徳川園は、尾張藩第二代藩主光友公の隠居所として造営された。光友公の没後 家老の成瀬、石河、渡邊三家に譲られた。1889年(明治22年)に尾張徳川家の手に戻り邸宅となった。1931年(昭和6年)、名古屋市は第十九代当主義親氏から邸宅と庭園の寄付を受けて、「徳川園」と名づけて一般公開した。しかし第二次世界大戦の大空襲でほとんどが焼失してしまった。2005年の愛知万博開催もあって、2001年(平成13年)、徳川園の再整備が始まった。2004年、江戸時代の主だった大名庭園様式である「池泉回遊式」 の日本庭園として開園した。徳川美術館は、徳川家康の遺品を中心に、初代義直(家康九男)以下代々の遺愛品、いわゆる「大名道具」1万件余りを収める美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめ、国宝9件、重要文化財59件などを展示している。
覚王山日泰寺
名古屋城下町の東に広がる丘陵地帯は、東山と呼ばれ、江戸時代には行楽地として知られていた。1898年(明治31年)、インド北部のピプラーワーでお釈迦様の遺骨の一部、御真骨が発見された。これによりお釈迦様のの実在が立証されることになり、19世紀東洋史上の一大発見となった。御真骨は、仏教国であったタイ国(当時シャム)のチュラロンコン国王へイギリスから寄贈された。1900年(明治33年)、「御真骨」の一部が、シャム国の国宝「金銅釈迦如来像」とともに日本へ贈られ、1904年(明治37年)、御真骨お祀りする寺院として10万坪の敷地に日暹寺(現在の覚王山日泰寺)が創建された。いずれの宗派にも属さない日本で唯一の寺院である。毎月21日には、弘法大師の縁日が開かれる。
揚輝荘
揚輝荘は、株式会社松坂屋の初代社長で伊藤家15代伊藤次郎左衛門祐民が、約1万坪の森を切り開き、覚王山の丘陵地に別荘として建設された。揚輝荘は、個人の別荘にとどまらず、皇族、政治家、実業家、文化人などの各界の名士が訪れる豪華な迎賓館、社交場としての役割も果たしていた。現在、敷地の多くが開発されて庭園も南北に分断されてしまったが、数棟の貴重な建物と庭園が残されている。南庭には、聴松閣、揚輝荘座敷。北庭には、三賞亭、伴華楼、白雲橋、豊彦稲荷などがある。
鍋屋上野浄水場
鍋屋上野浄水場は、名古屋市初の浄水場として1914年に竣工し、給水を開始した。犬山取水場から取水した木曽川の水が鍋屋上野浄水場に送られ、浄水されたのち、第一ポンプ所から東山配水池に送られた。操業当初は緩速ろ過方式で給水を開始した。浄水場に届いた水は、ろ過地周辺にめぐらせた水路を流れ、緩速ろ過池に流入する。緩速ろ過方式とは、小石や砂を充填した層をゆっくり通過させ、表面に発生する生物の力を利用して濁りなどを取り除く。ろ過速度が緩やかなので緩速ろ過方式と呼ばれている。薬品などを必要としないが、広大な面積を必要とする。昭和時代が始まると人口は100万人にせまり、加えて重工業の発展もあり、水の需要が高まった。1930年、東山配水池に東山配水塔が完成した。鍋屋上野浄水場から送られた水を塔上の貯水槽までポンプで一旦押し上げ、自然流下で現在の千種区覚王山から丸山町あたりの高台に配水した。東山配水塔は1973年に配水施設としての役割を終えたが、1979年、災害時のための応急給水施設、東山給水塔として再び利用されることになった。
末森城跡
末森城は織田信長の父、織田信秀により築城された。1511年、織田信秀は、尾張守護代「織田大和守」配下に清州三奉行の一人、織田信定の長男として勝幡城で生まれた。織田信秀は家督を継ぐと、港町で繁栄する津島の財力で、清州の「織田大和守」を凌ぐ勢力に成長した。信秀は名古屋周辺に勢力を広げるため今川氏豊の居城、那古野城を奪い勝幡城からここに本拠を移した。1539年、今度は熱田地域を手中にするため、古渡城を築城。那古野城は織田信長に譲られた。1548年、今川軍への防備のため、末森城を築城して本拠とする。晩年になった信秀は、末森城で正妻、土田御前、信長の弟織田信行と過ごした。信秀が没すると、織田信行が末森城と当主となった。信行は跡目相続をめぐって清州にいる織田信長と争った。1556年、信行は柴田勝家らとともに稲生(名古屋市西区)で戦うも信長に敗北する。一度は母、土田御前の歎願で命は救われたが、再び対立。1157年、彼は清州城内で殺された。この城は現在、城山八幡宮の敷地になっている。