沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第4回「元新地」

元新地

大須観音と同じく、岐阜県羽島市から移転してきたという北野天満宮

大須観音と同じく、岐阜県羽島市から移転してきたという北野天満宮

大須の町の中に、北野天満宮という小さな小さな神社が建っている。境内は狭いが、由緒は古い神社だ。もともとは、大須観音と同じく、現在の羽島市の長岡庄大須の地にあった神社だ。醍醐天皇(八九七年即位、在位三三年)の勅建の神社で、京都の北野天満宮より、菅原道真の画像を遷して鎮座したという。

この画像は菅原道真が配流の地、筑紫の太宰府で、自ら筆を執って描いたものだ。道真は、この画像を京にいる北の方と姫君に送った。天暦年間(九四七~九五七)、京都に北野天満宮が創建された時、神殿に、この画像は鎮座された。醍醐天皇は、深く道真を崇敬していた。羽島の地に天満宮を創建するにあたり、この神像も迎えたのであった。

康永三年(一三四四)焼失するが、すぐ再建される。慶長十年(一六〇五)、木曽川が洪水した時、天満宮は流失してしまう。徳川家康の命によって、慶長十七年(一六一二)、名古屋の大須の地に神社は遷座した。当時は境内地が百五十坪あった。

遊郭の仲居や楼主の名前が寄進主として刻まれている玉垣

遊郭の仲居や楼主の名前が寄進主として刻まれている玉垣

この神社の玉垣には、かつて大須の地にあった遊郭の仲居や楼主の名前が寄進主として刻まれている。商売繁昌を願う楼主ばかりではない。そこに勤める仲居や遊女たちも、この神社の鳥居をくぐり、手をあわせて祈っていた。 薄幸の境遇から抜けだしたい。毎夜、毎夜違った男を迎える辛い稼業から足を洗いたい。遊女は誰しも、そう念じたことであろう。

しかし、借金で縛られた身にはよほどの幸運がないかぎり自由の身になることはできない。体は病に蝕まれて、何人もの遊女が故郷に帰ることもなく、大須の地で亡くなっていった。 亡くなった遊女の身を哀れみ、土地の人たちが小さな石の仏様を立てた。 天満宮と道を隔てて、小さな祠が建っている。この祠の中に、石仏は鎮座している。

天満宮と道を隔てて建っている小さな祠

天満宮と道を隔てて建っている小さな祠

北野天満宮の建っている一帯、南は大須墓地(現在の大須観音の北)、東は大光院墓地、北は清安寺の墓地に囲まれた土地は、北野新地と呼ばれていた。 この地を安政年間(一八五四~一八六〇)、玉屋町の宿屋、笹野屋庄兵衛が上願して、北野新地を開拓した。ここに役者が寄宿する建物を建てた。

従来、役者、芸人は橘町の大木戸の中に宿まることは禁じられていた。茶屋町の旅籠屋の数も限られている。大勢の役者が来名した時には、宿まれない役者が出てくる。分宿するのも不便だというので、庄兵衛が建てたのが北野新地の役者宿だ。この役者宿に、いつとはなく遊女を置いて、商売をするようになった。

明治七年十月、県令を発して「娼妓、賦金ならびに免許鑑札料収納規則」を定め、北野新地を公認の遊郭とした。 しかし、北野新地は狭く、拡張することもできないので、西大須の地に移ることになった。 明治九年十月から、翌年の四月にかけて北野新地にあった遊郭はすべて西大須の地に移転した。 北野新地のあった土地、日之出町にちなみ、新しい遊郭は旭郭と名づけられた。 旭郭は新地、北野新地は元遊郭のあった地というので、俗称元新地と呼ばれた。

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