沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第1回「矢場地蔵」

矢場地蔵

徳寿山清浄寺(江戸時代の名古屋城下図)

徳寿山清浄寺(江戸時代の名古屋城下図)

矢場地蔵とは俗名であって、正式には徳寿山清浄寺という。『尾張年中行事絵抄』は、俗名の由来について次のように記している。

ここを矢場と呼事は、世に名高き星野先生の通し矢を御覧のために、京の三十三間堂のさまをうつせし其堂形ありて、射芸手練の輩ここに集りて、通し矢の稽古有し所ゆへの名なり。

星野先生とは、京の三十三間堂の通し矢で今までのレコードを破って、八千筋からの矢を射通した星野勘左衛門のことである。京都の三十三間堂の長廊に模した矢場がこの地に建てられたのは、寛文八年(一六六八)のことだ。幾星霜を経て、文化四年(一八〇七)には長廊が破壊してしまった。長廊の跡地は、米野村の佐野治郎兵衛に百五十二両で払下げられることになる。

清浄寺の開山は昿誉即往上人だ。南寺町の尋盛寺の塔頭庚申院に、俗世を避けて住んでいた上人は、二代藩主光友の帰依をうけるようになる。命により元禄五年(一六九二)日置村に清浄軒と号す庵を建立した。元禄十年十月二十九日、光友は初めて清浄軒に参詣した。この時、光友は落髪一包と落歯三枚を清浄軒に修める。後に光友の愛妾松寿院も、その落髪を修めた。そのことがあって、代々の藩主と夫人の落髪は、清浄寺に修められるようになった。 元禄十三年九月二十三日、建立の資金二千五百両を給わり、この地に清浄軒改め知恩院の末寺となった清浄寺が落成した。

清浄寺山門とジャンボ地蔵(延命大地蔵菩薩)

清浄寺山門とジャンボ地蔵(延命大地蔵菩薩)

矢場地蔵と人々から信仰をうける地蔵尊は、もともとは立山の山深い岩窟の中に鎮座していた。立山に籠り修行をしていた行者が、霊夢によりこの像を見つけた。笈に地蔵尊を納め、諸国をめぐり歩いていた行者は、日置村にたどり着く。清浄軒に祀られた地蔵尊を土地の人々が参りにくる。地蔵尊の霊験はあらたかで、病気などはたちまち平癒した。

江戸時代、清浄寺では、七月に地蔵祭が盛大に行なわれた。笠鉾が飾られ、菓子店や水茶屋が出て、大変なにぎわいであった。

矢場地蔵の地は、尾張の守護斯波氏の一族、牧長清の居城、小林城のあった所だ。長清は、天文年間(一五三二~一五五五)に小林城を築城し、前津小林村四千石余を領治した。信長の妹、おとくは長清に嫁ぎ、小林殿と称せられた。長清は富士山に七度、登山することを発願したが、三度までは登山することができたが、一城の主として長い期間城を離れることもできず、後の四度は断念した。城近くに富士塚を七箇所築き、浅間神社を勧請し、七度禅定の結願にかえた。信仰心の篤い長清は、三輪神社、春日神社の再建を行なった。

時移り、廃城となった木々の生い茂る小林城の跡地に住んだのが、一代の剣豪柳生連也斉だ。 生涯独身を通した連也斉の亡き後、この地に建てられたのが清浄寺だ。 清浄寺は、江戸時代、三千四百五十坪の広大な敷地の中に建っていた。

境内にある六地蔵尊

境内にある六地蔵尊

矢場地蔵堂

矢場地蔵堂

地図


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