沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第2回「赤門通」

赤門通

大光院の赤門

大光院の赤門

赤門通りの由来について、昭和十五年刊行の『裏門前町誌』のなかで青山市太郎は、次のように記している。

多年の懸案であった三輪町線区画整理組合も成立した。これは、最初十数年前商品陳列館の東門よりの通りがなくて不便であったのが原因であったが、おいおい陳列館がこわれ土地売却の期に(昭和五年以後)県当局へ補助金を申請し、その結果県当局より三万八千円の補助と三輪神社より二千円、両側地主負担十一万円とにより合計十五万円余の経費にて竣工す。 この赤門通りという名称は西にある有名な赤門大光院に因んで青山南城が考案し名付けた。 また、この通りの最初の目的は車馬のために開けしため、車が多くて、人間より車の通るのが多いので、こんな所では商売が出来んと云ふて引越した人も有ったとの事だが、今は人間許りで車止めも近々致さねばならんという時代になってきた。殊に、毎月二十八日の明王様の縁日の夜は人出が多く、この通りも盛り場となってきた。

赤門通り

赤門通り

赤門通りは明王殿の赤門の前より、裏門前町通りを越し、南大津通りに抜ける道だ。『裏門前町誌』が刊行された当時の赤門通りは、映画館や飲食店が並ぶ賑やかな通りであった。本町通りに向かって北側には、赤門娯楽デパート、赤門東宝映画劇場がある。南側にはS・Y大須映画劇場、大勝館があった。

純喫茶は赤門通りと裏門前町通りの交差する西北側にイチフジがあった。裏門前町通りを越した南側には、マイネ・クライネがあった。中公設市場の前にはフロリダ、通路をはさみ西側にはミノヤ、蝶々園があった。新天地通りを越して、北側にはイワイがあった。これらの店は朝八時から店を開け、夜おそくまで営業をして、味とサービスの激しい競争を演じていた。

浅間通りや仁王門通りの老舗の食堂を商売相手として、新興の赤門通りのクラブ亭、魚長、精洋軒、一正亭の和洋料理店、中国料理ののんきなどが味と値段で競争をしていた。

赤門通. 公設市場前より西を見る(昭和15年)名古屋都市センター蔵

赤門通. 公設市場前より西を見る(昭和15年)名古屋都市センター蔵

戦後になると赤門通りの様相は一変する。焼跡に、「赤門」と名付けた雑多な店が軒並み建ち始めた。 赤門娯楽デパートの路地には、赤門パチンコが建った。赤門東宝映画劇場の跡は、赤門ビンゴゲームだ。その東側は高瀬興業の事務所があり、裏手は中警察署だ。

青山家具の東側の道は、俗称青山小路と呼ばれた。中公設市場の前の店は、赤門しるこ、新天地を抜け西側に進むと赤門電気、赤門書店、赤門堂菓子と、赤門という名の付いた店が軒並み並ぶ。 戦前、戦後、そして現在も赤門通りで変らず商売を続けているのが中公設市場だ。

中公設市場は、大正七年八月の米騒動勃発を教訓として、その応急施設として、十一月に名古屋市が開設したものだ。昭和十二年に改築された中公設市場は、地上三階、地下三階の鉄筋コンクリート造りの全国にも例を見ないような立派な小売市場となった。赤門通りに面して、六カ所にショウウインドーが設けられていた。商品運搬用としてリフトも一台備えつけられた。従業員のためには食堂と更衣室があった。

現在の中公設市場

現在の中公設市場

敷地三百坪、建坪六五五坪の市場には、米屋、魚屋など五五の店舗が入っていた。屋上には児童遊戯場が、二階の一部には休憩室も設けられていた。市場建設の総工費は十八万四九五九円であった。 今、赤門通りには、娯楽街として飲食街として賑わった往時の賑わいはない。 ひっそりとした通りに立つ中公設市場も、いくらか寂れた感じがする。

地図


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