沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第3講 矢場地蔵から隠れ里 第4回「信長小路」

信長小路

総見寺山門と織田信長公由緒地の碑

総見寺山門と織田信長公由緒地の碑

信長小路と呼ばれた通りがあった。本町通りと裏門前町通りの間、赤門通りと万松寺通りにはさまれた道だ。 昭和八年の住宅地図をみてみると、本町通りに面して、この道の北側も南側も空地になっている。北側は二軒民家がつづき空地、南側も同じく二軒民家がつづいて空地になっている。賑やかな、人通りの多い赤門通りと万松寺通りにはさまれた人通りの少ない寂しい通りであった。

この通りが、なぜ信長小路と呼ばれたのか。それは、この通りの南側に、父信長の追福のために信雄の建立した総見寺があるからだ。総見寺は、江戸時代には九千四六坪、戦前は七百六十七坪という広大な敷地を領していた。寺には表門から入ることができるので門前町通り、裏門から入ることができるので裏門前町通りといわれるほどの大きな広い寺であった。

大正十一年(一五八三)、織田信雄が清須城主であった時のことだ。信雄は伊勢国大島村(現在の川越町)から廃亡に近かった景陽山安国寺を父信長のために清須北市場に移し、殿堂を造営した。この時、寺号を総見寺とした。総見寺という寺号は、信長が安土に居城していた時、山上に一堂を建立し、近江国をすべて総見したために付けられた名だ。信雄は、父の追福のためにゆかりの深い寺号を用い、忠嶽を招いて開山とした。慶長十六年には、この寺は大須に移ってくる。

総見寺には傑出した住職がいた。三世の閩山は才学にあふれた和尚だ。ある時、方丈から火が出た。閩山は少しもあわてず、悠然と詩を詠んでいた。

天示火災三四更
忽然行脚可憐生
尋常惨似把茸漏

と転句までできあがったが、結句はできない。そのとき、大雨が降り出し、火はたちまちのうちに消えてしまった。そこで和尚はとっさに

烈焔推中夜雨声

と結句を詠みあげた。 藩主義直は成瀬正虎に命じ白銀三百枚と木曽の良材を寄進し、再建にあたらせた。正保元年(一六四四)、義直を迎えて、落慶式は行なわれた。

十一世の卓州は万松寺の珍牛、大光院の黄泉とともに三大高僧とうたわれた人だ。 いかに彼の声望が高かったかを示す逸話がある。

文化十四年(一八一七)四月十五日から九十日間、卓州は総見寺で、壁厳泉の講釈を行なった。聴聞の僧は四百人をこえた。陽岩院は和尚の宿、東林院は雲水の宿、光勝院は病気の僧の休むところとした。東林院の北東に仮小屋を建て、ここにも多勢の僧が宿った。尼僧は橘町の裏に借家を借り、尼僧寮とした。陽岩院、東林院、光勝院はいずれも総見寺の塔頭だ。現在、残っているのは光勝院だけである。

ところが五月二十九日、藩主斉朝の夫人、淑姫が江戸で逝去した。 六月三日、普請は六日まで、鳴物は十九日まで停止の御触が出た。猟師は三日間御留、広小路に店を出す商人も、三日間は灯りをつけていけないという沙汰であった。総見寺の門には「参詣無用」と書かれた札が張られた。中門は閉められた。 しかし、寺の中では、卓州の講釈は続けられていた。他の寺ではすべて法談の類は中止されたが、卓州だけは特別の扱いであった。

七月十五日、九十日続いた講釈は終った。大施餓鬼が行なわれた。投餅等が行なわれ、卓州の法会の始めと終りに美しい音楽が奏でられ、多くの参拝客で賑わった。

地図


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