沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第3回「死に堀川」

死に堀川

乗円寺境内のお地蔵様. 右側のお地蔵様が新堀川の掘削工事で亡くなった人や川に身を投げた人を供養するお地蔵様

乗円寺境内のお地蔵様. 右側のお地蔵様が新堀川の掘削工事で亡くなった人や川に身を投げた人を供養するお地蔵様

新堀川端に二つのお地蔵さまが鎮座している。一つは記念橋と宇津木橋の間、乗円寺の境内にあるものだ。もう一つのお地蔵さまは宇津木橋を越え、南に少し歩いていくと道端に建っている。二つのお地蔵さまは慈悲にみちこまなざしでいつもむかえてくれる。

この二つのお地蔵さまは、新堀川の掘削工事で亡くなった人や生きることに疲れはてて、川に身を投げた人を供養するために建てられたものだ。 川は人を惹きつける不思議な魔力がある。川の流れを見ていて、思わず魅せられるように橋の上から飛び込んだ人もいるだろう。 いかに多くの人が新堀川に身を投げたか。この川が、新堀川ならぬ「死に堀川」と呼ばれていたことからもわかる。

宇津木橋の少し南側の道路脇に精進川の溺死者を供養するお地蔵様がある

宇津木橋の少し南側の道路脇に精進川の溺死者を供養するお地蔵様がある

新堀川は、精進川を改修したものだ。あまりに多くの人々が新堀川に身を投げるので、精進川という名前の祟りであるとして、新堀川と川の名前は改められた。死者があるときには精進する慣しがある。その名前のために多くの人々が身を投げるというのが改めた理由だ。

精進川の改修計画は、すでに文政十一年(一八二八)に起こっている。しかし、実現するに至らず明治に入った。その端緒を開いたのは、時の名古屋区長吉田禄在だ。 明治十六年、禄在は県令国枝廉平に次のような建議文を手渡す。

西に堀川の一水あれども、その巾狭く、基底浅く、此一水のみを以ては、四境隣国の物品を自在に運送せしむるの便を得ず、又自ら遅滞の患を免かれず。東に舟楫を容るるの水なきが故に、馬駄、車乗倶に其労多く、其便少くして、之れが洪益を起すこと能はず。其地磽确、其民衰頽せざるを得ず。禄在之れを憂へ、嘗てより之を救ふの策を考ふるや久矣。而して之れを救ふや一水を開鑿し、舟楫以て運潭をなすに如くはなし。

「精進川 溺死諸群霊」の文字が台座に刻まれている

「精進川 溺死諸群霊」の文字が台座に刻まれている

吉田禄在の熱い思いにもかかわらず精進川の掘削計画は遅々として、進まなかった。膨大な予算がかかるからだ。 しかし思ってもみない僥倖が起こった。

明治三十七年、日露戦争が勃発した。政府は熱田に九万坪を占める兵器製造所を建設することにした。時の市長青山朗は、精進川の改修工事を断行し、その土砂を兵器製造所に売却する方法を考えた。一石二鳥の名案である。 青山朗は明治三十八年二月二十一日、工事施工、改修費支出案を市会に提出した。

工事の施工は巾がもっとも長いところは三十四間七分八厘、もっとも狭いところは二十三間七分八厘とする。改修費には四十五万三千二百八十一円三十九銭の予算をあてる。 工事は三十八年十月六日着工、その後五ヵ年の年月と九十八万五千九百十円の工費を費し、四十三年には竣工した。計画は予定通り進まず川巾は当初の計画と異なり十五間ないし十三間の拡張にとどまった。水深は三尺とし両岸に護岸工事を施した。

明治四十四年、精進川改め新堀川となった。

地図


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