沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第5回「牛長屋」

牛長屋

性高院の書院での朝鮮通信使との会談の様子(尾張名所図会イメージ着色)

性高院の書院での朝鮮通信使との会談の様子(尾張名所図会イメージ着色)

名古屋の幹線道路本町通りを、多くの旅人が往来した。旅人ばかりではない。外国からの賓客である朝鮮通信使も、本町通りを通って江戸に向かった。外国の使節を一目でも見ようと、本町通りに人々が押し寄せた。 朝鮮通信使の主だった高官は、性高院に泊まった。従者たちは、それぞれ寺院に分宿した。 『金鱗九十九之塵』に、次のような記述がある。

明和元申年朝鮮人来朝して江戸通行の時、当府下にては性高院を宿坊と定。長栄寺うら門の辺りに仮家を建て、此所に牛を入れしと云伝ふ。其後其小家をしつらひて、人の住しと也。故にそれより字を牛長屋と呼しよし。

牛長屋の牛は、どういう目的で飼われていたのであろうか。数多くの通信使を描いた絵巻を見れば、牛車として牛を飼っていたのでないことは明らかだ。通信使の一行のなかの料理人が豚を調理している図がある。牛長屋の牛も、使節を饗応するために飼っていたものであろう。

金剛山 長栄寺 本堂. 本堂右手前に蘿塚がある

金剛山 長栄寺 本堂. 本堂右手前に蘿塚がある

牛長屋は、いつしか人々が住む長屋へと変わってゆく。 長栄寺界隈は、今も昔ながらの閑所が残り、長屋が残っている。しかし、それも今は稀少価値になりつつある。長栄寺の傍らには銭湯があり、高い煙突がそびえていた。しかしその銭湯もいつしか取り毀され、長屋もしだいに姿を消してゆく。

長栄寺という寺号は、織田信秀の妹、小林城主牧義清の夫人である、長栄寺殿槃室栄公禅尼から取って付けられたものだ。 この寺は天平十三年(七三一)、聖武天皇の勅願によって、金光明四天王護国寺と号し、中島郡萩園村に建てられたものだ。神護景雲三年(七六九)には、洪水により堂宇は流失する。弘仁年間(八一〇~八二四)海東郡森山村に堂宇を再建し、寺号も永見寺と改めた。その後も、兵火にあい焼失し、わずかに一草堂を残すだけとなった。

文禄年間(一五九二~一五九六)、長栄寺殿が清須に、この寺を新しく建て、明叟周見を招き、開山とし、寺号を今の名の長栄寺とした。慶長遷府(一六一〇)に名古屋の矢場町に移り、さらに天和二年(一六八二)に現在地に移ってきた。

横井也有の文名を後世に伝える蘿塚

横井也有の文名を後世に伝える蘿塚

長栄寺境内に蘿塚がある。蘿塚とは、横井也有の文名を後世に長く伝えんとして、弟子の石原文樵が建てたものだ。「也有雅翁」と刻まれた自然石に、つたがからまっていたので、いつしか蘿塚と呼ばれるようになった。この碑は、也有が生存中に建てられたものだ。『鶉衣』の中の「蘿塚の記」を也有は次のように記している。

予も一たびは杖を曳て我と我が名の石に向ふ。是も亦さる因縁のあればにやあらむ。 何にかも人はしのばむなき跡の石に はかなき名はとどむとも

明和六年(一七六九)、也有六十九歳の時であった。

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