沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第8講 バンコ長屋から榊の森 第4回「九丁堀」

九丁堀

九丁堀の交差点. 奥に見えるのが金山南ビル

九丁堀の交差点. 奥に見えるのが金山南ビル

市民会館の北側に古渡公園がある。公園の地下の駐車場に車を入れるためによく出かけるが、公園で遊んでいる人の姿を見かけることは、ほとんどない。公園に住みついている人が、大勢いるからだ。地上の公園は閑散としているが、地下の駐車場はいつも満杯だ。

古渡公園の北側の道を、国道十九号に向かって車を走らせる。国道十九号との交差点が九丁堀だ。十九号には、九丁堀と書かれた標識がかかげられている。標識に記されている地名は、その地点の町名だ。ところが、この交差点の周辺の町名は、九丁堀とは呼ばない。九丁堀は、江戸時代からの俗名だ。

九丁堀の近くに東本願寺がある。東本願寺は、織田信長が居城としていた古渡城があったところだ。古渡城のお堀から九丁堀と名づけられたのだろうか。東本願寺の堀は、堅牢な石組でできている。しかも古渡城は二重堀の、人を容易に寄せつけない、いかめしい構えであった。十九号の交差点辺まで、古渡城のお堀があったという説は、間違っているだろう。

九丁堀といえば、江戸の八丁堀に連想がとぶ。八丁堀は、町奉行所の与力や同心の役宅があったところだ。捕物帳の主人公は、八丁堀の旦那だ。八丁堀は中央区の町名だが、神田にも八丁堀があった。神田の八丁堀は、戯作の変人・奇人の住所としてよく用いられた。『東海道中膝栗毛』の弥次さんも「神田の八丁堀辺に独住の弥次郎兵衛といふのふらく者」と紹介されている。

慶長年間、江戸の町に、舟入場として多くの掘割が造られた。江戸の街の開発が進むにつれ、物資を輸送するためには、掘割が必要となる。八丁堀もその一つで、河口から八町(八七二メートル)の地点にあったことから、この名前がついた。もともとは、寺社地であったが、埋立などの開発が進むにつれて、寺社は他の地域に移され、かわって奉行所の与力・同心の役宅が建てられるようになった。 神田の八丁堀も、河口から八町の地点にある今川橋の辺の町名だ。

名古屋の掘割といえば、堀川だ。清須越の大移動の時に、多大の貢献をしたのが堀川だ。堀川は、名古屋の街への物資の輸送に欠かすことのできない掘割であった。 熱田の海から、九町の地点にあった場所が九丁堀だ。九丁堀には船を繋ぐ松があった。鯉叟は「舟つなき松の綱手や蔦かつら」という句を詠んでいる。 東本願寺の再建工事の時には、堀川を使って材木が運ばれた。堀川端には、材木置き場も造られた。 陸の幹線道路が本町通りならば、水上の輸送は、堀川にすべてがゆだねられていた。 堀川は、江戸の人々にとっては、身近な川であった。

地図


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