徳川園

【動画】徳川園 動画制作:2010年

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徳川園は、徳川御三家筆頭である、尾張藩二代藩主光友が、元禄8年(1695年)に自らの造営による隠居所である大曽根屋敷に移り住んだことを起源としています。

当時の敷地は約13万坪(約44ha)の広大さで、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたと言われています。光友の没後、この地は尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊三家に譲られましたが、明治22年(1889年)からは尾張徳川家の邸宅となりました。

昭和6年(1931年)、十九代当主義親から邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市は整備改修を行い、翌年「徳川園」が公開されました。昭和20年(1945年)に大空襲により園内の大部分を焼失した後は一般的な公園として利用されてきましたが、平成16年秋に日本庭園としてリニューアルしました。

徳川園HPより

*以下の文章は、徳川園管理事務所にインタビュー取材したものを要約したものです。

徳川園の歩み

徳川園は、二代目尾張藩主徳川光友公が江戸から戻って来られて名古屋で隠居されることになり、その隠居所として造営されたのが始まりです。

徳川園は、ちょうど名古屋城から東の方へと来た台地(名古屋台地)のはずれの手前の位置に選ばれました。隠居所というと小さいこじんまりとしたイメージを持たれるかもしれませんが、坪数で言いますと13万坪という広大なお屋敷でした。
さすがに二代尾張徳川家の殿様だけのことはありますので、広大な隠居所がこの土地に用意されたということです。

二代目尾張藩主光友様がお亡くなりになって、成瀬、渡辺、石河ら家臣(尾張藩重臣)たちに分割して下屋敷の用地として渡されました。
明治になってから、これらの家臣(尾張藩重臣)たちが、この土地はもともと徳川様から預けられた土地だということで、お返ししますということになって、再び徳川様ゆかりの土地になったわけです。お屋敷のまわりには薬草園などがあったと聞いております。

江戸後期の徳川園周辺地図
江戸後期の徳川園周辺地図

徳川義直が没した後、徳川園は尾張藩の下屋敷として与えられた。

名古屋市への寄付と徳川美術館の建設

昭和6年(1931年)一大転機がありました。お屋敷の部分を名古屋市に寄付するという申し出が(徳川家から)あり、名古屋市が管理することになりました。
また、残された土地に昭和10年(1935年)徳川美術館を建設され、美術館とお屋敷が一体となった徳川家ゆかりの場所になりました。
同時に、駿河御譲本を中心とする蔵書は東京目白の邸内に「蓬左文庫」として公開されましたが、戦争により10年足らずで閉館、戦後の昭和25年(1950年)「蓬左文庫」は名古屋市に管理を委託され、現在地で一般に公開されることになりました。

徳川園再開

戦災で大部分を焼失した徳川園は、葵公園と名前を変えて野球場やプール、結婚式場、東図書館などが次々と造られました。
しかし(時代と共に各施設の)老朽化も激しくなりましたので、徳川美術館、蓬左文庫、そしてかつて徳川園というお屋敷のあった 場所をリニューアルするにあたって、もう一度原点に立ち返って世界に向けて情報を発信できるような「武家文化の拠点」として整備しよう、 という話が持ち上がりました。また2005年には、愛知万博の開催が決定していましたので、これに間に合わせる形で徳川園の建設が行われました。

地図

徳川園の変遷
  • 昭和初期の徳川園周辺地図

    昭和初期の徳川園周辺地図

  • 昭和12年頃の徳川園 提供:徳川園

    昭和12年頃の徳川園 提供:徳川園

  • 再開前の葵公園

    再開前の葵公園

  • 徳川園完成予想図

    徳川園完成予想図

完成後の徳川園
  • 徳川園黒門

    徳川園黒門

  • 徳川園・徳川美術館解説

    徳川園・徳川美術館解説

  • 龍仙湖

    龍仙湖

  • 寒椿 2月初旬

    寒椿 2月初旬

  • 蓬左文庫前の二胡コンサート 4月初旬

    蓬左文庫前の二胡コンサート 4月初旬

  • 蓬左文庫前の二胡コンサート 4月初旬

    蓬左文庫前の二胡コンサート 4月初旬

「池泉回遊式」の大名庭園建設

13万坪あった広大な隠居所を当時そのままに復元することは不可能であるので、現状の限られた敷地のなかで世界に向けて 「これぞ徳川家の武家文化を象徴する庭園」であることをアピールするため、「池泉回遊式」といわれる大名庭園様式での再現を目指しました。
大きな池を作り、その池の周りを来場者のみなさんが散策する。地形は変化に富み、山があり、川があり、里があり、海に至るという日本の 自然風景を凝縮したような 「池泉回遊式」の大名庭園の様式をここで再現しようということになりました。

龍仙湖
  • 龍仙湖 中央左に見えるのは観仙楼

    龍仙湖 中央左に見えるのは観仙楼

  • 龍仙湖 舟だまり

    龍仙湖 舟だまり

  • 龍仙湖 舟だまり

    龍仙湖 舟だまり

  • 梅疑(うめもどき)の花

    梅疑(うめもどき)の花

  • 西湖堤から茶室瑞龍亭方向を見る

    西湖堤から茶室瑞龍亭方向を見る

  • 茶室 瑞龍亭

    茶室 瑞龍亭

  • 前方に西湖堤を見る

    前方に西湖堤を見る

  • 観仙楼

    観仙楼

大曽根の瀧と龍門の瀧

徳川園には瀧が二つございます。一つは最上流にあります「大曽根の瀧」この瀧は豪壮な瀧で、空に向かって岩が組まれておりまして大量の水が湧き出てくるという仕掛けになっています。下流にある池からポンプで汲み上げて循環する仕組みになっています。

もう一つの「龍門の瀧」は、二代目の徳川光友様が江戸にお住まいであった頃に別荘を造られ、その庭の一角にあったのが龍門の瀧です。 幸運にも、その石組みが早稲田大学の敷地(新宿区早稲田大学グラウンド)の下から偶然発見され、早稲田大学から(石を)譲りうけ、(龍門の瀧の石組に)使用することができました。

池の鯉が滝を昇って龍になるという伝説を持ち、大名格になると自身の庭園のなかに龍門の瀧を造りました。また龍門の瀧には仕掛けが施してありました。
大名を招いて園遊会などを開かれるとき、20人から50人ほどの御付の家来衆とお庭をめぐられるのが通例でした。ご一行の最後尾が龍門の瀧の前にある飛び石を沢渡りのように渡り終えられるかどうかという時に突然、先ほどまでさらさらと落ちていた龍門の瀧の水量が鉄砲水のように増して、最後尾の家来衆が全身、びしょぬれになる姿を振り返り、招かれたご一同が大爆笑するといった仕掛けが施されていたということです。
これにならい徳川園の龍門の瀧でも人工的に時間がきますと、瀧の水量が増す仕掛けがしてあります。

龍門の瀧
  • 龍門の瀧へ注ぐ入口付近

    龍門の瀧へ注ぐ入口付近

  • 龍門の瀧

    龍門の瀧

  • 龍門の瀧から流れた水

    龍門の瀧から流れた水

  • 龍仙湖へ注ぐ

    龍仙湖へ注ぐ

大曽根の瀧
  • 大曽根の瀧へ向かう

    大曽根の瀧へ向かう

  • 大曽根の瀧から流れた水

    大曽根の瀧から流れた水

  • 大曽根の瀧から流れた水

    大曽根の瀧から流れた水

  • 大曽根の瀧

    大曽根の瀧

いつ来ても花に出会える

4月の中旬から下旬になると、大きな牡丹(ぼたん)の花が咲き乱れます。55種類の早咲きから遅咲きのさまざまな種類の牡丹の花が1000本ほど植えてあります。
白、赤、桃色、そして遅咲きの黄色い牡丹まであり次々と咲いてゆきますので徳川園を代表する花でございます。
四季折々のいろんな花が咲くよいに自然風に植えつけられていますので、いつ来ていただいても何らかのお花に出会えるのが徳川園の特徴だと思っています。

牡丹園
  • 蓬左文庫前花壇に咲く牡丹 4月下旬

    蓬左文庫前花壇に咲く牡丹 4月下旬

  • 牡丹 後方は徳川美術館新館 4月下旬

    牡丹 後方は徳川美術館新館 4月下旬

  • 満開の牡丹

    満開の牡丹

  • 龍仙湖

    龍仙湖

  • 牡丹園

    牡丹園

  • 牡丹園

    牡丹園

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