名古屋開府400年の流れ

名古屋開府400年の流れ

名古屋台地の出現

古代、名古屋は東海湖という湖の中心に位置していました。この東海湖が隆起し、半島として名古屋台地が形成されました。その表土は瀬戸、常滑方面や滋賀県に流れ、現在の良質な陶器の原料となっています。北は名古屋城、東は覚王山、西は堀川沿い、南は熱田神宮の範囲で象の鼻のような形で伸び、熱田神宮の沖合いは遠浅の海になっていました。名古屋城下はこの名古屋台地の上に築かれました。

東海最大の城下町清洲

清洲城は応永12年(1405年)斯波義重によって築城されました。その後織田信友の居城となりましたが、弘治元年(1555年)信友は信長により殺害され、 信長は清洲城を大改修して那古野城より移り約10年間居城としました。本能寺の変で信長が倒れ、相続した次男・織田信雄も小田原攻めで秀吉に逆らい城を追われて、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では東軍の後方拠点として利用されました。

清洲越から名古屋に、徳川家康の城下町建設

慶長15年(1610)、名古屋城の建設が始まりました。以後、4年の歳月をかけ完成にいたりました。 家康は、江戸・大阪につぐ城下町として情熱をもって町づくりを行いました。すでに6万人余の暮らす清洲城下から寺社(120余)、町名もそのまま移転させる計画は歴史上まれなことで、徳川家康の意気込みと力を天下に示す効果は十分であったことでしょう。

初代藩主徳川義直の治世

元和2年(1616)、初代藩主義直は、駿河より名古屋城に移りました。家康は御三家筆頭として、62万石に加え尾張藩の財政基盤を安定させるため 、木曽の山林(御用林)を与えました。その堅実な藩政は名古屋城下の発展を刺激し、現在の名古屋の中心部の骨格を形作りました。また現在、蓬左文庫にて所蔵されている「駿河御譲本」は、家康の遺産として家康より与えられ貴重な文化財になっています。慶安3年(1650)義直は江戸藩邸で死去、瀬戸市の古刹定光寺にある廟所に眠っています。

名古屋の繁栄に京がさめた」宗春時代の繁栄

とかく地味だ保守的だと言われる名古屋ですが、元禄時代も終わり18世紀に入った1730年に七代藩主として徳川宗春の治世を迎ました。 奇行で知られる宗春ですが、その開放的な政策で名古屋は京をも凌ぐ文化都市として脚光を浴びました。「名古屋の繁栄に京がさめた」と巷で言わました。これに遡る事14年、江戸幕府8代将軍に紀州藩徳川吉宗が選ばれました。徳川御三家筆頭の尾張藩の失意と屈辱は計り知れないものでありました。宗春は、吉宗の質素倹約に対する反発をあらわに「温知政要」の政治理念をかざして、積極的な経済・文化の開放、拡大政策をおこないました。寛永年間(1661-1672)になると、名古屋人口も増加して、南の郊外にある門前町に碁盤割の町人を移す必要にせまられました。興行を打つ特権などを与えましたが、あまり効果はあがりません。大須がにぎわいをみせはじめたのは七代目藩主、宗春の時代になってからでした。武士にも芝居や寄席の見物を推奨し、さらに遊郭の開業も許しました。 大須をめざし人があつまりました。名古屋城下には開放感がみちあふれ、吉宗の倹約政策で職を失った江戸・京都の芸人が名古屋に集りました。また、祭り好きの宗春は京都からからくり職人を招き入れ厚遇したため、からくりを乗せた山車の6割がこの地にあったといわれています。代々その伝統は受けつがれ、「ものづくり愛知」の伝統を形作る一因となりました。しかし宗春の施策は幕府の反感を買い、財政の破綻も招いてしまいました。元文4年(1739)、宗春は吉宗から隠居謹慎を命じられ、1764年失意の中で死去。死後も墓石に金網が掛けられました。 現在でも、宗春の人気は高く功罪両面の評価・研究はいまなお行われています。

名古屋にも文明開花の足音が

明治4年(1871)に廃藩置県が行われました。翌年の明治5年愛知県は額田県を合併し現在の愛知県が誕生し、県庁は名古屋城内に置かれました。明治11年(1878)、名古屋区が発足、明治22年(1889)市制施行により名古屋市が誕生しました。市域はおおむね現在の中区と東区にあたるものでした。その後、明治31年(1898)、那古野村、古沢村を編入、明治38年(1905)、鳴海村、明治40年(1907)、熱田町、小碓村、明治41年(1908)には区政が導入され 中区、東区、西区、南区の4区時代がスタートしました。明治42年(1909)には千種町、御器所村を編入、人口も40万を超える中核都市に発展してゆきました。その後も都市化の波は周辺部に広がりました。

名古屋飛ばしの危機ー東海道線の開通と名古屋駅の建設

明治16年(1883)、政府は東西両京を結ぶ幹線鉄道を中山道に建設することに決定しました。軍事的な理由により海岸線から離れた中山道に敷設する計画でした。中山道を走り大垣に抜けるこの案は名古屋にとって今後の発展に大きな支障をきたすものでした。当時の名古屋区長吉田禄在は、県令国貞廉平とともにこの案に異議をとなえました。木曽から美濃路を越す難所である馬篭峠での工事の困難や、東海道線の経済的な優位性を訴えて公債募集も始まっていたこの案をくつがえし、名古屋を通過する東海道線の開通にこぎつけました。反対もありましたが明治19年(1886)5月1日 名古屋駅は当時沼地と田んぼであった笹島に建設され、開業当初は置かれた地から「笹島停車場」とも呼ばれていました。また都心と駅を結ぶため、堀川まで拡充されていた広小路通を笹島まで延長する工事も突貫工事で行われました。

悲願の名古屋港建設へ-遠浅の海そして資金不足

東海道唯一の海路「七里の渡し」に象徴されるように名古屋港ができるまでの海岸線は熱田まで来ていました。熱田湾は伊勢湾の最深部にあり、西部の低地は木曽・長良・揖斐の三大河川により運ばれる土砂が堆積し形成された沖積平野でした。また熱田湾には、庄内川・新川・山崎川・天白川などの中小河川も流入し大量の土砂を排出していました。このため熱田港の沖合いは遠浅で干拓事業には適していましたが、熱田港への大型船の入港をはばむ大きな要因となっていました。当時は四日市まで運ばれた貨物を小型船に積み替えて熱田港まで回漕せざるをえませんでした。

明治14年(1881)名古屋区長吉田禄在は名古屋港建設を政府に上申しましたが、港湾造成には不適格との理由で顧みられることもなく終わりました。明治18年(1885)明治政府は東京~横浜の例にならい、武豊港を名古屋の外港として位置づけ、武豊から熱田への鉄道敷設を行いました。しかし、明治22年(1889)東海道線の開通により武豊線の重要性が薄れてしまいました。その後、産業の発展と、日清戦争(1894)時における熱田港からの軍隊や物資の輸送能力の限界を問う声もあり、あらためて名古屋港建設の機運がおこりました。

明治29年(1896)、反対の声もありましたが第一期工事が始まりました。しかし不運にも同年8月と9月の二度にわたり未曾有の大暴風雨の被害を受け、その復興費用の支出が必要とされたこともあり、工事の中止や延期の声も強まり名古屋港建設は出だしでつまずくこととなりました。その後も反対の声は止みませんでしたが、突堤工事、砂防提・防波堤の建設、浚渫工事、灯台・航路標識の設置、市街地開設、耕宅地新開などの工事が進みました。

明治39年(1906)9月、建設工事も終盤を迎えるなか、築港関係者は世論に築港工事の必要性を訴えるため全国を巡航する博覧会用の汽船「ろせった丸」の入港を提案しました。 完成途中で海図もないとの理由で最初は断られましたが、関係者の熱意が通じ入港が認められました。多くの見物人が押し寄せ人気を博したので築港反対の声はなくなりました。

進むインフラ整備-大正時代

明道線、高岳線、岩井線、千早線、大津町線などの5大幹線道路の建設も始まり大正13年(1924)にすべの完成にいたりました。大正15年(1926)10月には中川運河の開削工事も始まり、昭和5年(1930)に完成しました

明治40年(1907)の名古屋港開港後、明治43年(1910)に第1期工事が完了し同年第2期工事が始まりました。翌年には、名古屋駅と名古屋港を結ぶ名古屋臨港線が開通し都心と港が鉄道で結ばれました。第2期工事は大正9年(1920)に竣工、引続き1万トン級の船舶の入港を可能とする目的で第3期工事にとりかかり、8年の歳月をかけ昭和2年(1926)完成にいたりました。第2期工事は大正9年(1920)に竣工、引続き1万トン級の船舶の入港を可能とする目的で第3期工事にとりかかり、 8年の歳月をかけ昭和2年(1926)完成にいたりました。明治40年(1907)、熱田町、小碓村が名古屋市に編入されたのを受けて、熱田港は名古屋港と改称され同年開港にいたりました。

昭和初期の名古屋経済

名古屋では、昭和7年(1932)に入ると外国貿易総額は上向きに転じ、昭和8年には過去最高の数字を残すまでになりました。昭和12年(1937)貿易統制が開始されるまで勢いは衰えずで貿易額は伸びてゆきました。これに貢献したのが綿織物でした。もうひとつの恐慌克服の要因は、軍事費の増大による重工業、とりわけ航空機などの軍需関連企業の成長でした。また、自動車生産など新しい産業が起こったのもこの時期です。

新名古屋駅の建設と桜通の開通

昭和12年(1937)は名古屋のインフラ整備が急速に進んだ年でした。同年2月には旧駅舎(笹島)の北西に地上6階地下1階の新しい名古屋駅が新築され、桜通も完成しました。3月には東山公園は東山動植物園もオープンし、臨海地帯で開催される名古屋汎太平洋平和博覧会を迎えます。日本は昭和15年(1940)皇紀2600年を迎えるにあたって、夏季オリンピックと万国博覧会の同時開催を東京市で予定していました。100万都市となった名古屋市でも、国際的な博覧会を開催しようといった機運が起こり、名古屋汎太平洋博覧会が昭和12年(1937)3月15日から5月31日までの78日間の会期で開催されることになりました。 会場は名古屋港北の臨海地帯熱田前新田、外国の客を迎えるため英会話の講習も行われました。