清洲城下の変遷

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清洲城は、尾張守護斯波氏の居城下津(おりつ)城の別郭として築城された。1478年、下津城のが焼失、守護所が清洲に移転されて織田大和守家の居城として尾張下四郡の中心とった。その後、守護代織田信友が 城主となるが、織田信長との争いに敗れ死亡、信長が那古野城から移り、改修を加えて本拠とした。1560 年の桶狭間の戦いは、圧倒的な不利な状況で今川義元軍を奇襲し打ち破ったことで知られている。
1582年、信長が本能寺の変で明智光秀に殺害されると、清洲城で清洲会議がおこなわれ清洲城は次男・織田信雄が相続することになった。信雄は城郭の大改修を行い天守閣などの建設を行い巨大な郭域に生まれ変わった。1600年の関ヶ原の戦い後も尾張の首府として人口6万人を数える関東の巨鎮として繁栄した。
1610年、徳川家康は、来るべき豊臣方との決戦に向けて低湿地で防衛力に難点のある清洲から、熱田台地の北端の名古屋への移転を決定した。世にいう「清洲越し」である。神社・仏閣を含む町ぐるみの移転せ清洲の町は荒廃した。清須の復活は後年、徳川家康によって美濃路の整備が行われ美濃路最大の宿場が設置されて実現することになった。現在の天守は、平成元年(1989)に建設された模擬天守である。

清洲城下の変遷ダイジェスト

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