沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第2回「手弱女(たおやめ)か腰も柳の薬師さま」

手弱女(たおやめ)か腰も柳の薬師さま

享和二年(一八〇二)六月十二日、『南総里見八犬伝』の作者、滝沢馬琴が、物見遊山の旅で名古屋を訪れ、十五日間滞在する。その時の感想が『羇旅漫録』の中に記されている。広小路についての記述は次の通りだ。

夏の暑い日、人々が涼みに出かける場所は、広小路の柳薬師の前である。柳薬師の前では茶屋がある。見世物小屋がある。芝居小屋がかけられていて、たいそう賑わっている。柳の薬師の前より眺める、広小路の景色は江戸両国の薬研堀とよく似ている。納涼の地は琵琶島がよいというけれども、あまりにも遠い。広小路は水辺ではないけれども、納涼の人々でたいそう繁盛している場所である。

名所団扇絵 柳薬師(名古屋市博物館蔵)

名所団扇絵 柳薬師(名古屋市博物館蔵)

広小路、本町通りの西側南に四十三坪半の地を占めていた俗称柳薬師、古松山新福院は禅宗臨済派の、もとは越前国大野郡勝山町開善寺の末寺であった。後、いくつかの寺の末寺と代ったが、最後の末寺は緑区大高の長寿寺である。『名古屋市史・社寺編』によれば、この寺を建立したのは、高須城主徳永左馬之介で、寛永五年(一六二八)三月、左馬之介が越前へ国替の時、この地に移ってきて、宗愚首座が寺を中興したという。

寺号の新福院よりも、俗称の柳薬師で知られていた。本尊の薬師如来の木像は仏工の春日の作と伝えられている。

なぜ柳薬師と呼ばれていたかについては、二説ある。 『金鱗九十九之塵』は、柳の霊木をもって、彫刻したので、柳の薬師と呼ばれるようになったという説である。

『名陽図会』は、次のように述べている。愛知郡一色村の何某とかいうものが、柳の枝を鞭にして、馬を曳いて広小路にさしかかった。新福寺の前にさしかかった時、鞭に使っていた柳の枝が地中にささってしまた。その木が繁茂して、名木となった。 柳の木で彫刻をした如来像が安置してあるので柳薬師と呼ばれたのか、柳の名木が繁茂している寺なので柳薬師と呼ばれるのか、その決着は今に至るもついていない。

昭和十三年の『無関之』二十二号に「広小路を語る」という雑談会の記録が載っている。出席者のひとり長谷川彦吉は、柳薬師について「柳薬師が賑ったのは、境内が賑ったのでなく、前の道路が賑ったのですなあ。入口に一本柳の小さなのがありましたが、それは正月に植木屋が売残ったのを差して行ったのが根付いたので、本当は奥に一抱えもある柳があったのだと聞いて居ります」と語っている。

新福寺は、明治七年に取りこわされてしまった。本尊の薬師如来は、緑区の長寿寺に遷座された。取りこわされた新福寺の南側にあるのが長円寺だ。区画整理などにより、新福寺の境内地の一部が柳の木とともに、長円寺の境内地とかわる。土地の人にとっては、柳の木は新福寺が取りこわされ、長円寺の境内地となっても、柳薬師の木だという認識が、長谷川彦吉の談話にも、よくうかがえる。 現在、広小路本町西にある長円寺は、浄土真宗の寺であり、新福寺は禅宗の寺で、全く別の寺である。

広小路夜見世のにぎわい - 尾張名所図会(イメージ着色)

広小路夜見世のにぎわい - 尾張名所図会(イメージ着色)

柳薬師は、毎年五月十九日頃より七月七日頃まで開帳した。この開帳は、四年近くも藩に願い出て、明和年間(一七六四~一七七二)にやっと許可されたものだ。

毎年、夜開帳は、たいへんな繁盛をした。『名古屋名所団扇絵』には、寺の前にかかっている溝川の木橋を渡り、開帳を見にゆく多ぜいの人の姿が描かれている。柳の枝ごしに満月が見える。『尾張名所図会』の広小路の夜店の絵には、おびただしい数の人が描かれている。

『名府玉尽し』に、「夏中夜開帳人立多く、夜見世のにぎはい、毎夜毎夜数万人妻子養ふ、是ひとへに薬師さまのおかげと申すべし」とあるが、毎夜毎夜数万人のにぎわいという表現も、あながち誇大な表現でないように、この図を見ていると思えてくる。

『尾張年中行事絵抄』は、夜開帳の賑わいを、次のように記している。

この開帳の始った明和年間の頃までは、広小路に飴菓子辻店などはあったが、現在のように茶店は出ていなかった。見世物、小芝居の類はなおさらなかった。いつの頃からか、さまざまな見世物が多く出るようになった。屋台、茶屋が、床机を置き、行灯を並べる。その行灯の光が広小路にまたたく様子は、夜空に輝く星にまけない美しさだ。名古屋の納涼を代表する様子である。

手弱女か腰も柳の薬師さま
風に吹かるる夜開帳かな       猿猴坊
夜店には 歯ぬき楊弓 鮓茶みせ
からくり的に のぞき物真似     次樫

夜開帳には、歌に詠まれているように、ありとあらゆる見世物が出た。鯨の子ども、大蛸などの珍しい魚類の見世物は、まだ愛敬だが、文政五年(一八二二)の人魚の見世物となるといかがわしくなってくる。この人魚は、肥後の国で獲れたというふれこみで、物をしゃべったという。人魚の声を聞けば、流行病が治るというので大変な評判になった。

人形の見世物には、何かからくりがしかけてあっただろうが、文化十四年(一八一七)の狼に犬を襲わせるというショーになると凄惨になってくる。 広小路から犬がいなくなったという。

夜ともなると、どこからともなく涼みに人々がくりだす。その中心が柳薬師の前であった。

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