沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第6回「厄払いしましょう」

厄払いしましょう

火除地のために造られた広小路が、蒲焼町から出火した火事のため、大混雑する事件が起きた。 天保三年(一八三三)十一月一日のことだ。時間は明け方の四時少し前。出火場所は本重町と蒲焼町の間の新長屋だ。引越しをしてきたばかりの長屋の住人の炬燵が出火原因だ。

上は本重町から、下は蒲焼町が焼けた。火は移り、西は伊勢町、東は大津町まで残らず焼け尽くし、七時頃に鎮火した。 焼け出された人たちは、家財道具を広小路に持ち出したので、さすがの広小路も人々で埋り大混雑となった。

火事があった後、三日の内に雨が降らないと、また火災が起ると言われていた。蒲焼町の新長屋から出火後、三日の内に、古渡の川口屋の辺、前津の冨士見辺で火事騒ぎがあった。人々は用心をしていたので、大事には至らなかった。

二十七日から三日間、広小路で、焼け出された人に対し施行が行なわれた。呉服町と伊勢町の間、広小路の南側に矢来を結び、その中に施行所を建て、その前に米俵が積まれた。焼け出された人には、一人前四合ずつが与えられた。施行に出た米は、白米六十石であった。

二十八日の夜には、「厄払いましょう」と大きな声を張りあげて、町々を厄払いが通って行った。厄払いは節分や大みそかに町内をまわる。しかし、この年の節分は、めでたくないというので現れなかった。施行のあった二十八日には大勢の厄払いが、厄が払えると町々に現れた。

火災が起れば、天災も起る。天保五年(一八三五)八月十一日、午後二時から四時にかけて広小路は大雨に見まわれた。掘切筋の水は、堀からあふれ出て、大久保見町に流れ出た。床の上に水は流れ、家の中が池となった。金魚が泳ぎ、鯉や鮒を人々は家の中で漁をするという騒ぎであった。

天保七年(一八三七)、この年も四月初めから七月七日まで雨が降る日が多かった。不順な天気が続けば米は不作となる。人々は飢えに苦しんだ。盗人も多く出てきた。

七月五日の夜、広小路の提灯屋が前津の畑から実ったばかりの豆を盗むという事件が起きた。帰る途中、番人に見つかった。提灯屋は七日から三日間番小屋の前にさらされた。多勢の人が、さらされている提灯屋を見に出かけた。提灯屋は前年にも、広小路で糞を盗んだということだ。

十七日、万福院秋葉祭に、豆盗人の提灯屋の作物が出た。顔は提灯、足は傘に見立ててある。その側に張紙に「提灯傘張替仕候」と書いてある。戯れに作った物とはいえ、あんまりのことと悪口をいう人もいた。

不景気で、物価はますますあがる。この年新米は一両で三斗八升、綿一両に五斤。油一升は八百文、酒は一升三匁になった。酒には水をまぜて飲む。油が高いので、辻々に張札が出された。「油一升に酢一升、塩を加へて用べし。大に益あり」と書いてある。この通りにためした人があったが、びしびしとはぜ、灯明の光は弱かった。

この頃、ある人の詠んだ、次のような詩がある。

夫々雖有冨家施 それそれふかのほどこしありといへども
米価高直難救飢 べいかかうじきうへをすくひがたし
三斗六升禄取喜 さんどろくしょうろくとりよろこび
六合五勺貧民悲 ろくごうごしゃくひんみんかなしむ
油皿加酢燈消早 あぶらざらすをくはへてともしびきゆることはやし
酒樽増水酔廻遅 さかだるみずをましてゑひのまはることおそし
家識掛所報恩講 さだめてしるかけしょのほうおんこう
寂々寥々御取持 せきれうれうたるおとりもち

なんともやりきれない詩だ。広小路を目をうつろにし、飢えに苦しむ人々が歩いていた。

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...