沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第8回「小宮山宗法」

小宮山宗法

本町六丁目小宮山宗法店 - 尾張名所図会(イメージ着色)

本町六丁目小宮山宗法店 - 尾張名所図会(イメージ着色)

『尾張名所図会』巻一に「本町六丁目小宮山宗法店」の図が載っている。小宮山宗法店は売薬店で、図には中風を治す妙薬の烏犀円の看板が大きくかかげられている。店の前の本町通りを往来する人々の表情もなごやかなものだ。笠を手に持ち、荷物を背にした旅人が店に入ってゆく姿も描かれている。

小宮山宗法店の評判を聞きつけ、おりから店の前を通ったので、立ち寄ったのであろう。 図の上には、次のような説明文が書かれている。

この家は代々国君に拝謁し苗字帯刀を許され、御領分売薬の首魁たり。家に売る所の烏犀円・紫雪等みな御方の秘薬なり。屋上に掲げ店前に立てる烏犀円三大字の看板は、明人陳元贇の筆なり。

宗法は法号で、本名は小宮山吉政と言った。先祖は武士で、近江の国に代々住んでいたが、宗法の父親、吉久の時に名古屋に移住してきた。吉政は剃髪して道休と称したが、後に改め宗法と号した。宗法は尾張の国で売られる薬の吟味役をしていた。宗法の検査を受けない薬は売ることができなかった。

『尾張名所図会』には、「烏犀円・紫雲等みな御方の秘薬なり」とある。御方とは藩主をさしている。烏犀円・紫雲等のような秘密の調合でできた妙薬は、藩主から人々に施される特別の薬だの意であろう。 紀伊大納言も参勤交代のおり、宗法の屋敷に立ち寄り休息をした。その時二百疋(古くは鳥目十文を一疋とし、後に二五文を一疋とした)を下されたという。

高貴薬を商う小宮山宗法は、大変な金持ちであった。『昔咄』の著者で、武勇にすぐれた近松茂矩が親友の宗法に変わった借銭を依頼する話が『天保会記』に載っている。

茂矩、小宮山宗法と茶の友たり。ある時宗法に云出けるは、一大事の義をたのみたし、聞入玉はるべきや。宗法曰、先語り玉へ。左なくては肯ひがたしと。茂矩曰、金子百両かし玉はれと。宗法曰、百両は大金なれば番頭とも相談せん。今のまには合がたしと。茂矩曰、いやとよ。今借るにあらず。もし軍あらば其時の用に約し置也と。宗法曰、左あらばいとやすき事也。御用立申べしと。茂矩曰、許容ありて満足せり。今宵よりは夜も心よくねられなんと喜色面に顕れたり。翌日、酒肴を宗法に贈りて謝し、それより盆と暮ごとに必酒肴を生涯贈りしとぞ。

ちょっといい話だ。いざ軍だという時には百両を借財したいという茂矩、それに応じる宗法。二人の友情と信頼が感じられる話だ。 小宮山宗法の名前は、代々受け継がれていった。明治になっても富豪であることには変わりはなかった。次の話は、明治十八年、六月十八日の名古屋絵入新聞に載っている話だ。

本区玉屋で陳元贇の書の看牌を掲げし薬舗で旧家の聞へ高き小宮山宗法氏は愛知郡瑞穂村に所有の田地あり、それを森清八といふに掟て置しが兎角紛紜(ふんうん)を述べて面白からぬゆゑその小作を解約しその田地を引上られたを不満としのこのこ元地主小宮山氏の店頭へ来たり。命を繋ぐ田地を引上げられて其日から活命(くらし)が出来ぬからどうなとして下さいと仰向き玉に寐(ね)たり起たり、末には強談をしかけ何とも以て取扱へぬ迷惑に、是非なく其筋へ説諭を願ひ出たにより、巡査は直ちに出張あり厳敷暴談を諭されグツともいへぬ在郷弁慶五条の橋の夫ならで牛若の如く査公に降参し鉢巻をはずし這鼠(こそ)々々と帰村したとか、こんな奴だから地所をとり上げらるるが尤もで厶(ござ)る。

こちらの話は、あまりよい話ではない。 小宮山宗法店のように大きな商家が建ち並んでいた本町通りも、今はビルの通りに変わっている。