沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第1講 江戸時代の広小路 第9回「秤座 守随商店」

秤座 守随商店

中央が広小路凱旋門、画面左の三階建てが守随商店

中央が広小路凱旋門、画面左の三階建てが守随商店

広小路通りが、本町通りと接する北側に木造三階建ての建物が偉容を誇っていた。他の建物を圧するかのように、広小路に面して建つ、この建物は秤屋の守随商店であった。

広小路通りで、最も古い歴史をもつ守随商店の前に、明治二十九年(一八九六)一月九日から十一日まで、日清戦争で、勝利をもたらした第三師団の兵士を迎えるための凱旋門が建てられた。 笹島にある名古屋駅から降りたった兵士は、広小路を行進してゆく。守随商店の前は、凱旋兵を歓迎する人々で鈴なりになった。人々には酒がふるまわれる。折話が出ると戦争の勝利に酔って、名古屋の町は大変な騒ぎとなった。

陸軍の総帥、山県有朋が、名古屋に来て、第三師団の兵士に対して、ねぎらいの言葉をかける手筈が整えられた。来名した有朋は、駅前の旅館、志那忠に入り、休憩することになった。ところが有朋は、志那忠に入るのは、嫌だと言い始めた。「シナ」という言葉が気に入らないというのが、その理由だ。

凱旋門の前に立つ守随商店は、広小路に面して間口が十五間(約二七メートル)あった。西洋館と見まがうような立派な建物であった。壁はまっ黒な塗仕立の三階建の商店で、一階部分は帳場、二階は秤をつくる作業場として使われていた。広大な敷地の中には土蔵が四つあった。

江戸時代、守随家は秤所であった。秤所というのは、秤の製造、販売、修復のすべてを許されている家のことだ。東国三十三ヵ国は、守随彦太郎家が秤所。西国三十三ヵ国は神谷善四郎家が秤所であった。 尾張・美濃二国の秤は、守随家が製作した秤以外は使用することが許されなかった。 守随家では、手代を各地に派遣して、秤の検査を行った。合格した秤は、守随の極印をうち、打賃として、秤一本について、銀一分を徴収した。不合格のものは、没収破棄した。

江戸守随家の三代、彦右衛門の妾腹の子、治郎右衛門が、名古屋に来て尾張守随家を開いたのは万治元年(一六五八)のことだ。治郎右衛門は、長者町に、江戸の出店を開き、営業を始めた。 長者町から、広小路に店を移したのは、安永二年(一七七三)のことだ。 尾張守随家の始祖、治郎右衛門が名古屋に来た経緯が守随家の由緒書に載っている。『広小路物語』(大野一英・六法出版社)より引用する。

明暦三年(一六五七)正月、江戸大火鎮定せざること三昼夜、死者十万八千余人、ことごとく本所中島にあつめて一塔を建つ。回向院これなり。治郎右衛門この難にあい、避けて尾州城下に住す。その翌四年、すなわち万治の年初、彦右衛門、同治郎右衛門尾州に移住したるを幸い、出張所の名をもって同人にも秤製作の業をせしむることとなしたり。

と書かれている。『広小路物語』は、さらに年間二十両の冥加金を尾張藩に献上し、秤座の特権を守ってきた守随家が昭和に入り、衰退する様子を次のように書いている。

ここに一枚の広告がある。年代は明確にはできないが、守随本店を績(しゃく)と牛丸が連名して経営する文面からして、明治四十二年の鑅(こう)之助死亡から大正四年の績死亡まで、店の者も外部の人も、績のあとは牛丸と思いこんでいたのも無理はない。
さて、貞三が秤屋十四代を継いでからの守随について、島本権左衛門、守随乙作兄弟のまとめた秤の守随家十四代守随貞三家系図は、こう書いている。〈第十三代大正四年三月八日歿し、家運ようやく衰えたり。広小路栄町八番戸(北側)の地所を売って、向い側の四番地に移る。分家せる貞三を迎えて第十四代家業を継承せしむ。大正六年三月一日なり。大東亜戦争の中、貞三病床につく。貞三生前、乙作あるいは牛丸の子と継嗣につき談合せるも、いずれも不調に終わる。〉

戦争は、人間の運命を大きく変える。守随商店は、戦火で建物すべてが灰塵に帰してしまった。金山の市民会館の前に、土地を探し、店は移っていった。その店は現在も同じ場所で商売をしている。 『広小路物語』に載っている家系図をまとめた島本権左衛門は、十二代鑅之助の八男、狗郎である。狗郎は、熱田木之免町の魚問屋島本家へ養嗣子として入り島本家の十二代目を継いだ人だ。

島本権左衛門は、敗戦直後の昭和二十四年、熱田、川並町〔現在の日比野町〕の名古屋市中央卸市場内に、守随秤座を開く。

権左衛門は、満州の戦地に行き、まだ帰らぬ弟の乙作が帰国して生活に困らないように秤店を開いて、彼が帰るのを待っていたのだ。乙作は鑅之助の十一男にあたる。 店の名を島本秤店とせず、守随秤店と付けたところに権左衛門の実家に対する愛着がうかがえる。 彼の長男の嫁にあたる島本幸子さんは語る。

「まったく商売を度外視した経営でした。守随の名の付いた店で、弟の帰るのを待つという信念で始めましたが、乙作が帰国しても店を継ぐことはありませんでした。乙作は戦争に行く前、竹中工務店で働いていましたが、帰国してからも、そちらの世話で、新しい会社をつくりました。
父はなにしろ、近くに店があるのに、名タクを呼んで、行く時も帰る時もタクシー通勤ですから採算のあうはずもありません。店は、サロンのような雰囲気で商売よりは、多くの人々と話すのを楽しんでいるようでした。
弟の乙作に対する優しい扱いでわかるように、温和な立派な方で、まわりの方からも尊敬されていました」

島本幸子さんの語る、権左衛門の店は、一代かぎりで終ってしまった。 権左衛門の守随に対する思いは、幸子さんの胸に今も宿っている。