沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第2講 覚王山の広小路遺跡 第4回「世界は我が市場なり」

世界は我が市場なり

左が市邨芳樹、右が太田静男の墓

左が市邨芳樹、右が太田静男の墓

覚王山日泰寺の墓石の林立する小高い丘の上に市邨芳樹の墓がある。市邨芳樹は明治二十六年名古屋商業学校の校長に赴任して、数多くの経済人を育てた人である。

彼の墓の隣に、三井物産の筆頭常務として活躍した太田静男の墓が並んで立っている。太田静男は市邨芳樹の教え子だ。師弟の墓が仲よく寄りそうようにして並んで秋の日ざしを受けている。

隣の恩師市邨芳樹先生の墓にも詣でてほしいという趣旨を刻んだ碑

隣の恩師市邨芳樹先生の墓にも詣でてほしいという趣旨を刻んだ碑

太田静男の墓の前には、私の墓に詣でた人は隣の恩師市邨芳樹先生の墓にも詣でてほしいという趣旨を刻んだ碑が立っている。死してなお、師の傍らで眠りたいという静男の願いによって、市邨芳樹の墓の傍らに墓は建てられたものであろう。二人の墓の前に立つ時、希有な師弟愛にうらやましさに似たものを覚える。

加藤商会の創立者、加藤勝太郎は明治三十五年、名古屋商業学校を卒業した時、恩師の市邨芳樹を尋ね、東京高商受験の相談をした。伊勢山町で時計工場を営んでいた父親の事業も思わしくない。しかし勝太郎は東京に出て勉強を続けたいという願いを強く持っていた。

思い悩んでいる勝太郎に、市邨芳樹は、「これからは海外との貿易の時代になる。世界に雄飛する経済人にならなければならない。東京に行くよりも、海外に出なさい」と教えさとした。世界は我が市場なり、は市邨芳樹が常に口にしていた教えである。 芳樹は、当時香港に駐在していた太田静男に加藤勝太郎を紹介する手紙を書いた。

香港では、中国人の二階の一部屋を間借りし、日本から送ってくるボンボン時計を売りさばいた。香港からは石ケンを日本に送った。商売のうまい中国人に、何度もにがい汁をのまされた。その時、何かと相談相手となってくれたのが太田静男である。

滞在五年、名古屋に帰り、貿易商加藤商会を創業、神戸、東京、香港、シンガポールに相次いで支店を開設した。大正七年(一九一八)米騒動の時に、外米三万俵を緊急輸入して騒動を鎮静し、彼の名前は一躍知られるようになった。有形文化財に指定されている加藤商会ビルが建てられたのは、昭和六年のことである。

名古屋国技館

名古屋国技館

大正七年、五月五日名古屋国技館で、市邨芳樹の謝恩会が盛大に催された。門下生四千人を代表して加藤勝太郎が謝恩の辞を朗読した。

顧レバ一タビ先生ノ教ヲ受ケシ者ハ先生ノ之ヲ視ルコト子ノ如ク満身ノ熱血ヲ注ギ、之ニ接スルヤ常ニ温顔怡容人ヲシテ春風ノ中ニ座スルノ感アラシム

納屋橋川畔に立つ加藤商会ビル(現在)

納屋橋川畔に立つ加藤商会ビル(現在)

この謝恩会で勝太郎は金五千円、太田静男は二千円を寄贈した。この時の謝恩会では十数万円が集まった。 市邨芳樹は、これらの資金をもとにして名古屋女子商業(現名経大市邨学園高等学校)を創設した。

納屋橋川畔に立つ加藤商会ビルは、名古屋のよき時代の面影を濃厚にしめしている建物だ。

加藤商会ビルの創立者加藤勝太郎の生涯に思いをはせる時、よき時代の師弟の関係、先輩、後輩との強いつながりを感ずる。加藤勝太郎は、よき師である市邨芳樹、よき先輩である太田静男の後見によって、一代で名をなした豪商だ。

納屋橋川畔を本拠にして、世界を舞台に商売をした加藤勝太郎、三階の社長室から、いつも無言で堀川を見つめていたという。