沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第5回「開化期の商売繁盛記」

開化期の商売繁盛記

明治二十一年(一八八八)刊行の『尾陽商工便覧』は、尾張の代表的な商家を絵画で紹介したものである。この絵を見ていると当時の商家の様子と風俗をよくうかがうことができる。 広小路で紹介されている商家は、栄町では料理屋の喜楽亭だ。喜楽亭は朝日神社の西、富沢町の筋の東北角にあった。広小路をはさみ、向い側に建っていたのが名古屋郵便電信局だ。名古屋郵便電信局は、現在日興証券ビルに変わっている。

喜楽亭の絵は二図載っている。一つの絵には料理玉突運動場と書いてある。喜楽亭は二階建てで、一階では玉突きをしている絵が描かれている。二階は牛鍋を囲んでいる幾組かを描かれている。

明治三年に刊行された二代広重の「異人玉ころがしの図」という外人が玉突きをしている三枚続きの錦絵がある。この絵にあるように、玉突きは横浜の外人が始めたのが次第に流行し、明治十一年頃には名優団十郎、菊五郎も熱中したという。

明治十八年頃、東京では神田淡路町の万代軒、京橋の精養軒等の料理屋で、球台を備え、客を遊ばせていた。喜楽亭は、いちはやく東京の流行を取り入れた店だ。もう一枚の絵には、「西洋御料理」と書かれた大看板の下の広小路通りを、洋装の紳士、淑女が歩いている図だ。当時の服装をよく知ることができる。 名古屋での西洋料理店は、上長者町の和洋軒が明治四年に始めたのが最初だ。

いかめしい構えの店は、本町交差点の西南角の諸売薬大取次処、郵便電信切手売下所の片野和助の店だ。店の前には幾つかの看板がかかっている。東京の太田胃散、野州宇津救命丸、水戸高倉司命丸などのなかで、正面にひときわ大きくかかげられているのが尾州紫雪だ。

東京岸田精錡水とあるのは、麗子像で有名な画家、岸田劉生の父親、吟香が売り出したものだ。劉生は名古屋に来たおりには、片野和助の店に必ず立ち寄ったという。和助の子ども元彦は、後に劉生の弟子となり画家として活躍する。

片野和助の店と広小路をはさんで建っていたのが、煙草商就産処支店だ。看板にはやにぬき紙巻、細切煙草と書いてある。正面には金の鯱が描かれ、そのまわりにシガレットと書かれた丸看板が屋根の上にかかげてある。店主の五味正譛は千石の尾張藩士であったが、徳川家の就産処で巻煙草の販売をしていた。

日本で最初に巻煙草を製造したのは、竹内毅と石川厳だ。明治六年オーストリアの博覧会に出かけた二人は、そこで製造機械を購入し、帰朝後さっそく製造を始めた。明治九年から煙草に課税されるようになった。この頃より、喫煙者がふえてきたのであろう。

鼻先の開化やたらに巻煙草     総子
山焼の煙ひげ面巻煙草       梅逸
鼻の先あつくなりにし巻煙草
           くもかなと思ひける哉   百首

当時の巻煙草を詠んだ狂句・狂歌だ。

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