沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第6回「紅葉屋事件」

紅葉屋事件

本町通りを広小路を越え、末広町に向かって歩いてゆく。入江町筋を渡ると、通りに面して右側に紅葉屋がある。この店は、幕末、洋反物商として巨財をなした紅葉屋の屋号と経営権を譲られた番頭の浅野甚七が創立した店である。

明治三十四年(一九〇一)刊行の『大福帳』には、浅野甚七について「之も紅葉屋の別家、中々売出さるると見へて、近頃立派な普請も出来ました」と書いてある。浅野甚七の一軒隔てた北側には、紅葉屋の別家、渡辺長三郎の店がある。

浅野甚七の店と通りを隔てた向い側に大きなしもた屋〔商売をしないで暮している格子づくりの家〕がある。このしもた屋について大福帳は、「元は海西郡鬼坊主村の御百姓、当市洋物商の元祖で在ったことは面白い。東海唯一の新田持豪長者」と記している。

新田持豪長者とは、神野(かみの)金之助のことだ。神野金之助が、いかに新田持の豪長者であったかを示す「地価官納者上位十人一覧(明治十五年)」が『新修名古屋市史』第四巻に載っている。第1位は関戸守彦だ。金之助は第二位地価一六万一一一七円、所有地反別は六二七町五九畝一五歩〔約六二七ヘクタール〕だ。

以下三位に伊藤次郎左衛門、四位伊藤忠左衛門、五位岡谷惣助とつづく。関戸、松坂屋の伊藤家、川伊藤家、岡谷家と江戸時代からの豪商に比して、海西郡江西村(現在の愛西市)出身の新興商人は金之助だけである。

幼少の頃の金之助についての逸話を林董一は『明治の名古屋人』で、次のように紹介している。

十五歳のころ、当時肥料商を営む父から、夜業として木綿糸をつむぐよう命令されたが、彼はそのくずを売って貯金することを忘れなかった。また竹藪に入り、落ちている竹の皮を拾いあつめたり、空地に枝豆をつくったりして、貯金の高を示す帳面の数字がどんどんふえていくのをみて、ひとりよろこぶ少年時代であった。

栴檀(せんだん)は双葉より芳し、この心がけでもって金之助は後に、名古屋財界の重鎮として明治銀行、福寿生命などの会社を起し、明治四十三年には名古屋鉄道の社長に就任する。

商才に長けていたのは金之助だけではない。金之助の長兄友三郎も、嘉永四年(一八五一)十五歳で紅葉屋の富田重助の家に養子入りし、経営の才を発揮する。三代目を襲名した重助は、練油や白粉、紅などを扱う小間物屋であった紅葉屋を西洋の小間物や舶来の毛織物を扱うことによって、大幅に業績を伸ばして名古屋一流の洋物店にした。

安政年間(一八五四~一八五九)通商貿易が開かれる。元治元年(一八六四)ごろから、重助は横浜に出かけて品物を輸入商から直接買い付け、それを超快速船に載せて名古屋に送り洋物を大量に扱う商売を始める。

洋物は仕入れをすれば、右から左に飛ぶように売れてゆく。重助の時代をみる確かな眼と、商人としての大胆な発想が、ますます紅葉屋を栄えさせていった。

本町通りの店では、店員たちが来客があまりにも多いので、食事をする時間がなく握り飯を店頭でかじりながら客に対応していたという。一日に千両の商いをする日もあったということだ。江戸では、吉原、芝居町、日本橋の魚河岸が日に千両の金が入ることで知られていたが、紅葉屋は、話半分としても、吉原の一日の稼ぎを商っていたことになる。

横浜が開港されているにもかかわらず、尊皇攘夷の嵐が日本中に吹き荒れていた。名古屋の町でも、金鉄組と称する若い藩士たちが攘夷をかかげて過激な運動をしていた。洋物を扱って金儲けをするのはけしからんと、金鉄組は洋物商を目の敵にしていた。 慶応元年(一八六五)、百五十人の連署をもって、藩主慶勝に対し、紅葉屋重助など十軒の洋物商を廃業にせよとの建白書を出した。

建白書だけでは埒(らち)が明かないとみるや金鉄組の七人の藩士は実力行使に出た。刀を突きつけ、すぐさま廃業せよと重助を脅した。役者は、重助が一枚も二枚も上手だ。如才なく揉み手をしながら番頭に用意させた五百両を差し出す。日に千両の商売をするという紅葉屋にとっては、五百両の損失は、たいした痛手ではない。金鉄組の面々に向かい、在庫の洋物がすべて捌(さば)けるまで廃業を待ってほしいと言う。約定書と五百両を受けとり金鉄組は、紅葉屋を去って行った。

この話を聞いた人々は、紅葉屋の洋物が蔵からなくならないうちに買おうと店におしかける。在庫の品は、またたく間になくなる。重助は、横浜から品物をこっそりと仕入れ、それをまた売る。廃業どこ吹く風と平然と重助は商売を続けた。

慶応二年二月八日の夜、金鉄組が、二度目の襲撃をかける。前年の約定を破り、商売を続けているのは、けしからんという理由である。金鉄組は刀を抜き、洋物を切り裂き意気揚々と引きあげる。

紅葉屋襲撃後の二月二十三日、大曽根の十州楼で、事件の黒幕、田中不二麿、丹羽賢たちが酒を飲み、乱暴を働くという事件を起こした。彼らは紅葉屋事件とあわせ、差控え(自宅謹慎)という処分をうけた。紅葉屋の方は二週間の戸締謹慎を命ぜられた。

このことがあって、紅葉屋の名前は広く知れ渡るようになった。遠く越中や遠州からも取引きの申し込みがあったという。

慶応三年伊勢神宮のお札が、本町通りの金持の商家の上に舞い降りるという事件が相次いだ。人々は通りを踊り狂って歩いた。このええじゃないかの騒動に際して紅葉屋は、絶好のかせぎ場とばかりに踊り子のゆかたの売り込みに成功し、莫大な利益をあげる。

紅葉屋事件の黒幕、金鉄組の田中不二麿は新政府に仕え、司法大臣となる。丹羽賢は五等判事となる。紅葉屋の富田重助、神野金之助の兄弟は、名古屋の財界の重鎮として活躍する。 紅葉屋に攻め入った側も、守る側も両者とも新しい時代の波にのることができた。才覚と器量が彼らに備わっていたからのことであろう。

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