沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第3講 開化期の広小路 第8回「広小路を電車が走る」

広小路を電車が走る

栄町交差点付近から新栄側をのぞむ(明治43年)

栄町交差点付近から新栄側をのぞむ(明治43年)

広小路通りを、のんびりと市電が走っていたのどかな姿は、遠い過去の面影の光景になってしまった。ゆっくりと走る市電の姿は、外から眺めれば、のんびりとした光景だが、市電の中はラッシュアワーともなると大変な混雑であった。市電だけが広小路を走る唯一の交通手段であった時代、それは広小路に多くの人々が集り、賑わいの中心でもあった時代であった。

名古屋に電車が始めて走ったのは、明治三十一年五月六日、広小路通りの笹島と県庁前の区間であった。当時、愛知県庁は南久屋町にあった。物見高い人々が、広小路につめかけ、むしろを敷いて弁当箱を広げ、一番電車がくるのを今か今かと待ちかねていた。

試験運転は、昼間行なったら見物人が押しかけ危険であるというので、前日の夜の一時に行なわれていた。二十八年一月三十一日開通の京都の電車についで、日本で二番目の電車が、広小路を九時に走った。見物人は、大きな歓声と拍手で、この電車をむかえた。

『名古屋市電物語』は、当時、広小路を走った電車を次のように伝えている。

電車は全部で七両。長さ六・五二八メートル、定員二十六人。うち座席は十二人分しかない。車体はあずき色で、運転席はオープンデッキになっていて、吹きっさらし。車輪は前後四つだけ。開業当時の社員数は六十人。庶務会計、機関、運輸の三部門に分かれていた。
送電線を除いて施設のほとんどは輸入品。台車、電動機は米国のウォーカー社製だった。停留場は笹島から出発すると、柳橋、御園町、七間町、終点の県庁前と五ヵ所。料金は一区一銭の区間制で、笹島から県庁前まで乗ると四区で四銭かかる勘定だ。広小路の焼き芋屋が「一ぱい三厘、三厘」と呼びかけて、アイスクリームを売って評判になったり、氷水が五厘、米一升(一・八リットル)十九銭という時代である。

人力車が走る広小路に電車を通したのは、名鉄電車の前身、名古屋電気鉄道だ。 五月六日の開通から、月末までの二十六日間の乗客数は十六万六千二百八十三人、収入は三千七十五円五十二銭であった。一日平均の乗客数は六千三百九十三人だ。

広小路を走る電車(大正2年)

広小路を走る電車(大正2年)

順調なすべり出しで、多くの乗客をのせ、広小路を電車が走った。 大正三年八月、名古屋電気鉄道は一区一銭の料金値上げの申請を出した。他の都市では一区いくらで増えてゆく比例料金制から均一制、制限区間制へ移行しつつあった時期であったので市民の怒りは頂点に達した。

九月六日、鶴舞公園に集った五万人の群衆は、栄町から広小路を進み、名古屋電気鉄道の那古野の本社に向ってゆく。その間、警察官ともみあいをくり返し、電車二十三両を焼き払った。 この焼きうち事件をきっかけとして電車市営化の動きが強まった。

大正十年六月、千百九十二万円で、名古屋電気鉄道から名古屋市へ、名古屋市内の電車路線は譲渡された。 大正十一年八月一日、名古屋電気鉄道から引き継いだ四十二・五キロの路線を二百三十五両の電車が市営の電車として走り出した。

翌年の三月には、柳橋交差点に「止レ」「進メ」と書いた円盤が取り付けられ、巡査が操作をした。名古屋市内に初めて設置された交通信号機である。 この年、市電の競争相手となるバスが、名古屋駅前と千種駅の間を走るようになった。一区十銭であった。

東京・大阪に次いで名古屋駅と栄町間二・四キロに地下鉄が登場したのは昭和三十二年十一月十五日であった。明治三十一年、名古屋で始めて電車が走った区間を、地下鉄が走る。その地下鉄が市内に張りめぐらされた市電網を、十七年後にはすべて消滅させてしまう。

昭和四十六年一月三十一日、七十三年間広小路を市民の足として走り続けた市電が、最後の運転をした。別れを惜しむ大勢の人が広小路に押し寄せた。蛍の光とともに出発した電車に乗れなかった人々は、電車の後を追い、笹島まで歩いて行った。