沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第5回「広小路の騒動」

広小路の騒動

広小路を走る名古屋電気鉄道の車両(大正2年)

広小路を走る名古屋電気鉄道の車両(大正2年)

新聞が世論を形成し、新聞記者が市民の先頭に立って社会の矛盾や腐敗と対決していた時代があった。新聞は大企業や時の権力者に阿る機関ではなく、正義をかざし、不正を追及する機関であった。しかし、あまりにも世論が沸騰すると、時にはゆきすぎた暴動ともなりかねない。

大正三年九月六日、鶴舞公園で、名古屋電気鉄道が経営する市街電車の電車賃の引き下げを要求する市民大会が開催された。主催者は県・市政記者で組織をする「大三倶楽部」である。名古屋市の市街電車の運賃は一区二銭、最長区間の覚王山の月見坂から築港までは二十一銭であった。名古屋市内で発行する各新聞は、京都市などと比較して三十パーセントの割高であると激しく名古屋電気鉄道を糾弾した。

鶴舞公園の市民大会には、五万人余の聴衆が集まった。すでに八月二十四日から、名古屋の新聞記者たちは、十回にわたって末広座、歌舞伎座などの劇場を借り切り、演説会を行ない値下げを強く要求していた。

鶴舞公園の演説会が終わり、公園を出た市民の一部が電車に丸太を投げたことから暴動の幕が開いた。 広小路を走る電車を焼きうちにする、当時郊外線列車の起点駅であった柳橋駅におしかけ火をつける、建物を破損するという手のつけられない状態が続いた。栄町の電気鉄道の出張所も取りこわされた。 七日には、愛知県知事松井茂の要請で第三師団の軍隊が出動し、警察とともに鎮静化をはかる。電車が全線開通したのは九月十一日であった。

名古屋米穀取引所(大正2年)

名古屋米穀取引所(大正2年)

大正七年、米価の暴騰のため生活難にあえいでいた人々が米の廉売を要求して、未曽有の騒動を全国的に起した。全国を席捲した米騒動は、名古屋がもっとも激しかった。

大正七年八月七日の『名古屋新聞』は次のような記事を載せている。

米の値は日を追って益々昂騰して行く。一円に三升台がいつの間にか二升台となり、昨日まで二升台であったものが明日はそれを突き破って一升台を呼ぶという法外な高値、全く天井知らずの相場はどうなることか。八月八日、神戸では一升五十六銭となった。名古屋正米市場でも美濃の二等米が一俵十七円で取引された。一俵十七円といふと一斗四円二十五銭で一円に二升三合五勺、これが小売白米で一升四十五・六銭の高値となるが、いくら高くても奪い合いして売れて行く。

桜井清香が、「米騒動絵巻」を描いている。この絵巻には、栄町角いとう呉服店付近を警戒する騎馬憲兵の姿が描かれている。広小路の無人の電車の前を何人もの駆け去る人々の姿が描かれている。米騒動が、この絵巻によって、いかに大規模なものであったかがわかる。

この暴動が起きたのは、八月九日であった。鶴舞公園の噴水塔に、どこからともなく人々が集まってきた。二百人ほど集まっていた群衆は、米屋が売り惜しみをしていると騒いで、公園付近を通る自動車に投石を始めた。しかし、この夜は警官が出動して、十時半には解散し、事なきを得た。

八月十日、前日に続いて、群衆は鶴舞公園に集まった。群衆の一部は、広小路にくり出し中央バザーのガラスをたたき割った。

この日、名古屋市議会が臨時に開かれ、三万一千四〇八円五〇銭を計上し、外米三百五十石を各区役所で分配することを決定した。

八月十一日には、鶴舞公園に十万人の市民が集結し、米屋町の米穀取引所を目ざす暴徒と警官隊とが衝突する。

八月十二日、公園に集まった群衆三万人は大池町の交番を襲い、南伏見町の米屋を襲った。松井県知事は第三師団に依頼し、軍隊が鎮圧にのりだした。

米騒動の鎮静化に力を貸したのは、加藤商会の社長加藤勝太郎だ。加藤商会の傭船が外米三万俵を積んで名古屋港に入ってきた。船から下ろされた外米は、一斗ずつ袋に積みこまれ、中、西、南、東の区役所の玄関前に積み上げられた。

勝太郎による外米三万俵により、米騒動は終った。荒波を越え、江戸の町にみかんを紀州から運んだ紀伊国屋文左衛門になぞらえ、人々は勝太郎を「今紀文」と呼んだ。

ええじゃないかの騒動の時、中心となったのは本町通りだ。大正の初めの二つの騒動の中心は広小路通りだ。時のメインストリートが、人々が騒ぎ、人々がアピールする場所となる。

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