沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第4講 大正時代の広小路 第8回「南大津通りの松坂屋」

南大津通りの松坂屋

中村呉服店の広告(昭和)

中村呉服店の広告(昭和)

広小路通りと本町通りの交差する地点は、かつては名古屋の中心地であった。 大正十四年一月二十七日、わずか一坪の土地が三千百五十円で売られた。買手は中村呉服店である。中村呉服店は、この年まで広小路通りから東側北へ二軒目で商売をしていた。中村呉服店が買った土地は、広小路、本町通りが交差する地点、東側にあったすし屋の土地である。本町、広小路角は土一升金一升の名古屋市内で最も繁華な、賑やかな土地であった。この年、千種町豊前に新設された名古屋市営の千種住宅の一戸の家賃は十一円であった。

中村呉服店が広小路本町角の土地を購入したこの年、いとう呉服店は南大津通りへ新築移転をした。『松坂屋五十年史』は、その経緯を次のように記している。

栄町角の名古屋店は、開業満十五年、対外的には名古屋の中心街をつくりあげるとともに、社内的にも、本社としての使命を堂々と果してきましたが、将来の発展をおもえば、すでに狭すぎるおそれがありました。これに備えて、大正四年に購入してあった南大津通二丁目の千四百坪に、いよいよ新築移転することとなり、十三年三月に着工して一ヵ年で竣工をみました。この頃の東京では、大震火災後の傾向として、耐震耐火の鉄骨コンクリート建てが台頭してきた時代でありましたので、名古屋店もその例にもれず鉄骨建ての地上六階地下二階、総面積六千坪、名古屋の建築物としては、お城と肩をならべる存在となりました。いよいよ五月一日の開店日を迎えると、定刻前から店頭の道路は人でぎっしり整理のため警官の出動をみたほどで、開店と同時にさっとうした人の波は、六千坪の店内を埋めつくして、身動きもできない盛況ぶりでした。

松坂屋(昭和初期)

松坂屋(昭和初期)

南大津町の新店舗の設計は、栄町店と同じ鈴木禎二、施工は竹中組であった。伊藤次郎左衛門祐民は、大正十年に義弟の岡谷惣助、加藤商会の加藤勝太郎と外遊をした。祐民は欧米の百貨店をつぶさに視察した。

南大津町の新店は、外国の百貨店に敗けない店を造りたいという祐民の意欲があふれている最新的な設備がほどこされている店だ。 暖房冷風設備の店内にはあらゆる商品が網羅してあった。店名も、いとう呉服店改め松坂屋と変った。

広小路本町角から栄町へ賑わいの中心が移ったのは、いつ頃からであろうか。 明治四十年、熱田町などが名古屋市に編入された。この年、国際通商港となった名古屋港が開港し、外国からの荷物が積み下ろしされるようになった。 名古屋と熱田を結ぶ街道の整備が緊急の課題となった。熱田と名古屋を結ぶ街道は、本町通りがある。しかし、江戸時代からの状態そのままの本町通りは狭くて、二つの地域を結ぶ道路としては不完全であった。

松坂屋屋上より大津通を北にのぞむ。中央奥に名古屋城が見える(昭和初期)

松坂屋屋上より大津通を北にのぞむ。中央奥に名古屋城が見える(昭和初期)

栄町角から熱田へ通ずる道として、熱田街道(南大津通り)があった。この道を改修し、延長することとなった。幅員は十三間(約二三メートル)に広げられ、工事費は総額五四万一九二八円を要した。工事は明治四十年八月から始められ、翌年の四月には完成した。

四十一年には南大津通りの上前津から関西府県連合共進会の開催会場となる鶴舞公園へ通ずる道が完成した。 栄町から熱田伝馬町、熱田駅前から築港へ通ずる電車の軌道を、本町通りに敷くか南大津通りに敷くかが論議された。本町通りの住民からは、電車を通すことへの反対意見が相次いだ。結局南大津通りを電車が走ることとなった。

本町通りから人の足が遠のくとともに、南大津通りが名古屋の幹線道路として栄えるようになった。 南大津通りの松坂屋は、いつも人波であふれていた。新しい幹線道路を象徴する百貨店であった。

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