沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第5講 戦前の広小路 第5回「赤い灯青い灯の広小路」

赤い灯青い灯の広小路

高島田に結った芸者が、広小路通りを歩いてゆく。現代では想像もできないことであるが、戦前の広小路には、多くの置屋があり、何百人もの芸者がいた。昭和十四年刊行の『名古屋案内』に広小路の芸者のすばらしさを紹介した次のような文がある。

市内の花柳街の中心地は、何といっても広小路の南北に軒を連ねている置き屋のそれでありましょう。そこにはツキたての餅のように温かく、牡丹刷毛のように柔らかな玉の膚を絹衣で包んで、優し物腰で情緒豊かな嬌声を振りまいている一群の女性がいるのです。

この案内文に惹かれて名古屋に、わざわざ遊びに来た人がいたかも知れない。

置屋とは、芸者をかかえている家だ。芸者は、この置屋で寝起きをする。置屋では客を遊興させず、検番などの依頼に応じて芸者をさしむけた。

広小路には二つの検番があった。広小路商店街の地域に属するのが浪越連だ。浪越連には百二十軒の置屋と四百十一名の芸者が属していた。新柳町商店街の地域に属するのが、中検番だ。八十四軒の置屋と三百四十人の芸者が中検番には属していた。浪越連と中検番とは、もともとは東雲連といって、一つの検番であった。

当時、名古屋には十六の検番があった。そのうちの大須の廓連、睦連、長者町の盛栄連とあわせ、広小路の浪越と中の検番は五連妓と称せられた。

戦前の広小路は、置屋が軒を並べる花街であるとともに、カフェの密集する街であった。芸者と女給は客を惹きつけるために、手をかえ品をかえてのサービス合戦をした。 『愛知県警察史第三巻』に、昭和八年十二月に警察部長が、芸者の舞踊取り締まりについて、各警察署長あてに発した次のような通牒が載っている。

最近レビュー、ダンス等ノ影響ヲ受ケ芸妓ノ客席ニ於ケル舞踊ノ如キモ所謂新舞踊ト称シ蓄音器ノレコード等ニ依リ諸種ノ舞踊ヲ為ス者続出スルノ傾向アリ。之等ノ中ニハ薄物ヲ着シ裸体ニ近キ服装ヲナシテ著シク煽情的ナル動作ヲナスモノアリ。風俗上面白カラサルヲ以テ斯ノ如キモノハ尓今厳重取締ヲ執行スルト共ニ業者ニ対シテハ至急其ノ旨警告ヲ発セラルヘシ。

重々しい訓告と内容が何ともちぐはぐで面白い。客へのサービスのためには、三味線のかわりにレコード、日本舞踊のかわりにダンスをする。料理屋の密室のなかでのサービスを警察は、どのようにして取締ったのであろうか。

芸者に対抗する女給の方のサービスもすさまじいものがあった。業を煮やした警察は、昭和十年に「料理屋、飲食店、カフェー及喫茶店営業取締規則」を定め、さまざまな規制をした。

第十九条の十四には「客席ノ照明ハ主トシテ白色を用ヒ四平方米ニ付キ一〇燭光以上ト為スコト」とある。条令は赤い灯、青い灯で部屋の照明をしてはならない。白色にすること。そして部屋を暗くしてはいけないというものだ。

第二十八条の一は「舞踊ヲ為サザルコト」とある。客とダンスをしてはならないということだ。四は「異様ノ服装ヲ為サザルコト」と定めている。おかしな服装をして、席についてはいけない。この条令により白色のエプロン姿が女給にはふさわしいとされた。白色のエプロンに服装は統一された。

ぼったくりが心配なのは、昔も今も変わらない。第二十六条の三は「飲食物ノ定価表ヲ客ノ見易キ場所に掲示スルコト」四は「客ノ求メザル飲食物を供シ又ハ不当ノ代金ヲ請求セザルコト」とある。

酒場の風俗は、時代とともに変わる。しかし、酒場に女性のサービスを求めて通う客の心配は万古不易のようだ。

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