沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」第6講 戦後の広小路 第10回「広小路のヤナギ」

広小路のヤナギ

名所団扇絵 柳薬師(名古屋市博物館蔵)

名所団扇絵 柳薬師(名古屋市博物館蔵)

銀座に対する憧憬は、歌によって醸しだされている部分が大きい。戦前では、「むかし恋しい銀座の柳、あだな年増のあで姿……」と誰もがこの歌を口ずさんで、どんな遠隔地にいる人でも、一度は銀座に行ってみたいと思ったものだ。戦後、銀座から柳の木は姿を消してしまった。この歌にちなみ、銀座に柳の木を植えたいという地元の熱意により、再び銀座の街路樹として柳の木は復活した。

広小路と柳の木との関係は深い。江戸時代の賑わいの中心、柳薬師。そして柳町、いずれも広小路の柳にちなんで付けられたものだ。

東海道線名古屋駅が開設された翌年の明治二十年、名古屋の街路樹第一号として、広小路通りにシダレヤナギが植えられた。四千本近くのシダレヤナギは広小路の景観に欠かせないものであった。

平成三年、名古屋市の広小路都市景観整備事業の一環として、シダレヤナギは切りとられ、街路樹はケヤキに替った。「高層ビルが建つ近代的な街並みに、ヤナギは似つかわしくない」というのがケヤキに変更された理由だ。

納屋橋をはさみ、東と西の両地区は百メートルの超高層ビルや大型都市ホテルを建てる。それによって広小路を復活させたいという広小路の整備事業は、古い歴史のある広小路通りから、近代的なしゃれた広小路通りに変えていくというものだ。古い広小路の象徴であるシダレヤナギは切り取られてしまった。

新しい広小路の象徴として植えられたケヤキは、東京の表参道が有名だ。しゃれた店の立ち並ぶ表参道は、いつも若者たちであふれている。 しかし、新しいビルだけが建ち並び、魅力のある店がなければ、若者たちの足を広小路に向けさせるのは難しい。古い広小路は、買物を楽しみ、映画を見、お茶や食事で憩う通りだった。新しい広小路は、通勤の人が通るオフィス街だ。いくら再開発の名のもとに高層ビルを建てても、立ち寄りたい店がなければ、それは自動車が通りぬけるだけの桜通りや錦通りと同じで、人間よりも車が優先されている通りだ。

平成三年二月、名古屋市の都市景観整備地区に指定された広小路通りは、シダレヤナギから街路樹をケヤキに替えるとともに、歩道を一メートル広げて五・五メートルに、車道を一車線減らして二車線にした。広ブラを再現したいという願いからだ。

広小路通りに四千本近くのシダレヤナギが植えられた(写真:大正2年)

広小路通りに四千本近くのシダレヤナギが植えられた(写真:大正2年)

戦後に流行したデュエット曲で、もっともよく歌われたのは「銀座の恋の物語」だ。「東京でひとつ 銀座でひとつ 本当の恋の物語……」、この歌をカラオケの前で何人もの人が陶酔して歌い、銀座でデイトをしてみたいと思った。

再開発のビルが立ち並び、歩道だけが広げられた広小路で、デイトしたいと思う人がいるであろうか。 古いものをこわし、再開発のビルだけを建て、歩道を広げれば若者が広小路に集うものではない。人々を惹きよせる魅力がなければだめだ。

戦前の「銀座の柳」、戦後の「銀座の恋の物語」は銀座に人々をひき寄せる役割をはたした。 広小路の流行歌も数多くつくられている。戦前では高橋掬太郎作詞の「広ブラソング」がある。

赤いネオンの街角で 今日も昨日も待ち合わせ
逢えば心もウキウキと チョイト広ブラ
チョイト広ブラ うれしいね

戦後では三浦康照作詞、古賀政男作曲の「広小路のひと」がある。

狭霧のような小雨の中で あなたの瞳が見えました
私のこころの まぼろしなのか
愛して別れた 思い出は
舗道に残る……あゝ 広小路のひと

「広小路ブルース」という歌もある。吉川静夫作詞、渡久地政信の作曲だ。

あなたに甘えて 飲んだ酒
別れがつらいと 泣いた酒
東新町のネオンの花に すがる私は 夜の蝶
あゝ涙がうたう 広小路ブルースよ

作詞も、作曲も一流であるにもかかわらず、まったく流行らなかった。広小路に対する思いが、こめられていないからであろう。 名古屋の流行歌のなかで、もっともよく歌われたのは石原裕次郎の「白い街」だ。

この道の はるか彼方の
雲流れる下に 幸福がある
あゝ 久屋通りの花時計
花に遺した きみの微笑
白い街 白い街 名古屋の街

白い街とは、緑の木々のみられない、ビルの立ち並ぶ街のことだ。うるおいのない街と歌われた「白い街」がもっともヒットするとは、皮肉なことだ。 むかし恋しい広小路のシダレヤナギが切りとられ、再開発したビルが立ち並ぶ広小路からは、本当の恋の物語は生まれてこない。

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