公孫樹(いちょう)の大木
その昔、堀川の流れに沿うようにして、江川が流れていた。江川は西区の稲生町から分流し、中川(中川運河の前身)に注いでいた。万治三年(一六六〇)の大火の時には、復興用の資材を、志段味の山から切り出し、江川を経由して運搬したという。今も地名として残る柳橋は、江川に架かっていた橋の名前だ。
江川は大正時代に暗渠となって、下水道の幹線となった。道路となった江川の上を浄心から柳橋を通り、船方までのんびりと江川線と呼ばれた市電が走っていた。そして、市電も姿を消して、現在は高速道路が高架の上を走っている。
市電の江川線と広小路線が交差するところが柳橋だ。江川線沿いの歩道の両側には、柳の並木が続いていた。風情があり、夏のそぞろ歩きには絶好の地であった。町名も江川線の東側を東柳町、西側を西柳町と呼んでいた
柳橋から南に少し歩くと白龍神社がある。名古屋には、戦前、数多くの白龍神社があり、商売繁盛の神様として崇敬をうけていた。遠隔地からも、わざわざ白龍神社にお参りにくる人がいた。 この地の白龍神社は、かつては江川の流れに臨み、柳橋の近くに鎮座していた。
白龍神社には、樹齢三百五十年の公孫樹の大木がそびえている。昭和二十四年、都市計画で道路が拡張されることになった。公孫樹の大木も移植されることになり、工事人夫が公孫樹を伐ろうとしてけがをした。病気になる人も出てきて、移植は中止されて、公孫樹は道路に突き出たかたちになっていた。
昭和三十四年になって、現在地に公孫樹の大木は無事に移植された。 白龍神社の御神体は白い蛇だ。白い蛇にまつわる伝説が『名古屋むかしばなし散歩道』(加藤昭)に紹介されている。
四百年ほど昔のことだ。柳橋の近くの村で熱病が流行した。村長の徳兵衛は、氏神さまに毎日祈ったが病人はふえるばかりだ。ある夜、徳兵衛の夢枕に、まっ白な装束の老人が立って「流行病を治すには、江川の中で光っている石を見つけて、それを舟つき場の柳の木の下に祀ることだ」と言った。 徳兵衛は翌朝、江川に行って川べりを歩き、白い石を目をこらして探した。白く光る石がある。徳兵衛が石を持ちあげたところ、白い蛇が石にまきついていた。柳の木の根もとの穴に、石にまきついた蛇を入れ、しめなわを張った。 病人の熱は、その日のうちに、すっかりひいたという。