沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第11回「洋書の丸善」

洋書の丸善

中区地図の裏に掲載されていた丸善の広告(昭和初期)

中区地図の裏に掲載されていた丸善の広告(昭和初期)

『丸善社史』のなかに、丸善名古屋支店の設立の経緯が、次のように記されている。

明治七年八月名古屋支店が設けられ、豊橋の人原畴(店名近次)がこの時新しく入社してこの店を担当した。この店の開始に就て早矢仕虎吉の雑記に、名古屋にあった慶応義塾出版局出張所を買収したものであると記されている。而してこの店でも書籍のみならず薬品の販売をも行っていた。尚従来本店及各支店には丸屋善七、善八等の名義が付されたのであるが、名古屋の支店には特別にかかる名義を付さず、丸屋善八出店とされていた。その設置された場所は本町八丁目九番戸であって、現今の御幸本町八丁目十八番地に相当する。

明治七年、本町八丁目に開店した丸善は、五年後の明治十二年九月頃に、本町二丁目六八番戸に移転する。当時の丸善の実質的な経営者は野崎覚次郎である。 野崎覚次郎は明治三十一年、自らは薬品だけを扱うことに専念し、書籍の方は佐藤次郎に譲渡した。当時の店舗は薬品は京町一丁目、書店は本町三丁目にあった。

丸善が広小路通りに進出してきたのは、明治四十五年のことだ。場所は現在の三越百貨店の地点である。二階建ての店舗であった。県庁、市役所を控えたこの地点の近くには、県立第一高等女学校がある。この学校の教師たちが丸善に洋書を買いに来たという。 大正二年には、商号を合名会社名古屋丸善書店と改名した。現在の地に丸善が移ったのは昭和五年のことである。鉄筋コンクリート四階建の赤レンガ造りであった。

現在の丸善

現在の丸善

洋書といえば丸善だ。しかし洋書だけでなく丸善に行けば、さまざまなものを購入できる。男性の身だしなみ、会社での事務用品など「丸善は男のショッピングストア」だと言えよう。明治十六年に輸入されたファウンテンペンは、丸善の販売担当者の名前が「金沢万吉」であったので、それをもじり万年筆と命名された。インターネットの普及により、万年筆を使用する人も少なくなった。しかし、かつては万年筆は男の武器であった。

明治四十一年には安全カミソリ、四十四年にはイギリス、スコットン社の帽子、大正三年にはバーバリーコート、いずれも丸善が最初に輸入したものだ。 ハヤシライスも丸善の初代社長早矢仕有的の考案によるものだという。

丸善の初代社長、早矢仕有的は岐阜美濃の出身で、慶応義塾で福沢諭吉に学んだ人物だ。丸善の日本橋店は明治二年の設立である。 荒俣宏は『江戸の快楽 下町抒情散歩』のなかで、丸善命名の由来を次のように記している。

早矢仕有的は西洋文物を輸入販売する専門会社「丸屋」を貿易のメッカ横浜で開業した。丸という字は、丸い地球をあらわし世界に通じることのシンボルだったという。元来は「球(まる)屋」だったが、タマヤとかマリヤなどと誤読されるので、丸の字に変えたそうだ。これに早矢仕が世話になった故郷の庄屋、高折善六に感謝する意味から、善の字を加えて、のちに「丸善」を名のった。

今日も丸善の中に、多くの男性が吸いこまれてゆく。丸善は昔も今も、男のショッピングストアだ。