沢井鈴一の「名古屋広小路ものがたり」補講 名古屋駅~栄 第13回「テレビ塔の下に埋もれた芭蕉の旧宅」

テレビ塔の下に埋もれた芭蕉の旧宅

芭蕉の借家があったとされる場所には蕉風発祥の地の記念碑が建っている

芭蕉の借家があったとされる場所には蕉風発祥の地の記念碑が建っている

元禄時代の松尾芭蕉と名古屋の都心にあるテレビ塔、その両者にどういうかかわりがあるのだろうか。関係を解くカギは『金鱗九十九之塵』に掲載されている。

俳諧師芭蕉翁桃青旧宅跡は、久屋町〔東区東桜〕角から西に入った南側にある。元禄年間、はじめて芭蕉翁が名古屋にいらっしゃったときに、多くの門人ができたので、しばらくこの地に足をとどめようと、ここに借家をなさった。そのとき、詠まれた発句を集めて『冬の日』と名づけた。家主は傘屋久兵衛、また身元引受人は、大和町〔中区丸の内〕の備前屋野水である。

芭蕉の借家を現状にあてはめると、テレビ塔の東北の足の前あたりになるというので、ここに蕉風発祥の地の記念碑が建てられた。 蕉風発祥の地だといわれるのは、芭蕉七部集〔「冬の日」「春の日」「曠野」「ひさご」「猿蓑」「炭俵」「続猿蓑」〕の第一集『冬の日』の五歌仙が、ここで巻かれたからである。

芭蕉は、貞享元年(一六八四)八月に江戸を出発して、『野ざらし紀行』の旅に出た。十月に熱田から名古屋に入り、歌仙五巻を興行した。そのときに詠まれた句を集めたのが『冬の日』である。蕉風発祥の地の碑文には、『冬の日』の巻頭の文が次のように彫られている。

笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士、比國にたどりし事を不図おもひ出で申侍る。
狂句   こがらしの身は竹斎に似たる哉

医者として失敗し、各地を放浪して歩き、尾羽うち枯らして尾張にきた竹斎に、芭蕉は自分の身をなぞらえている。 芭蕉の句をうけて、野水が、

たそやとばしる笠の山茶花

と付けた。本人はわび人などとおっしゃっていますが、木枯しの風に吹き散る山茶花の花びら、その中を笠を傾けておいでになった旅のお方は、どなたでしょうと名古屋にきた芭蕉を歓迎し、その風流ぶりをたたえた句で答えている。

蕉風発祥の地の碑文には、『冬の日』の巻頭の文が彫られている

蕉風発祥の地の碑文には、『冬の日』の巻頭の文が彫られている

清須越しの名家で、呉服屋の若旦那であった野水は二十七歳。野水についで、

有明の主水に酒屋つくらせて

と詠んだ町医者の荷兮は三十七歳。名古屋連衆の中心的な存在であった。その他、米穀商で二十七歳の杜国、材木商で三十二歳の重五らが芭蕉を迎えて歌仙を巻いた。『冬の日』の成功に勢いづいて、荷兮を中心として『春の日』『曠野』と芭蕉七部集の三部までが名古屋の俳人たちの手によって編纂された。

しかし、しだいに荷兮らと芭蕉のあいだには、齟齬をきたすようになった。元禄七年(一六九四)、長崎への旅を思いたち江戸を出発した芭蕉は、五月二十三日に荷兮の家に草鞋をぬいだ。 芭蕉に物足りなさを感じ、独自の活動を始めた荷兮たちを、芭蕉の弟子たちは白眼視し、軽蔑した。その中には、名古屋の若い俳人もいた。 荷兮と芭蕉は、一晩かかって、それらのことについて話しあったであろう。しかし、わだかまりは消えなかった。

荷兮は、伊勢に出かける芭蕉を、佐屋路を歩き烏森〔中村区烏森〕の松並木まで見送った。そこの茶屋には、露川が芭蕉を出むかえていた。

麦ぬかに餅屋の店の別れかな

荷兮が芭蕉との別れを詠んだ句である。芭蕉は上方へあがり、大坂で客死した。