沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第1講 西大須 第6回「堂裏」

堂裏

昭和39年頃、伏見通りを背に東向きに立つ大須観音仮本堂と仁王門。その後昭和45年に現在の南向きで再建された。(写真:名古屋都市センター蔵)

昭和39年頃、伏見通りを背に東向きに立つ大須観音仮本堂と仁王門。その後昭和45年に現在の南向きで再建された。(写真:名古屋都市センター蔵)

現在の大須観音は南向きに建てられている。大須観音の入口にあたる仁王門も南向きだ。しかし、仁王門通りは東西の通りである。戦火により焼失するまで、仁王門は東側にあり、大須観音も東向きに建てられていた。

大須は、伏見通りにより東西に分断され、戦前とはすっかり町の様相は変わってしまった。大須観音の裏手は堂裏と呼ばれた。吾妻町は観音堂の裏手にある花町であった。伏見通りの開通とともに、豊岡楼、久本楼など十軒余の遊廓、置屋は通りの下に消えてしまった。

大須観音の裏手、吾妻町通りには、二軒の玉ころがし屋が道をはさんで遊客の来るのを待っていた。通りの南側の玉ころがし屋の西隣はタバコ屋、さらにその隣には長寿湯という銭湯があった。その南側にあった宝生座も、伏見通りの下にうずもれてしまった。 今、残っている店は喫茶はやしやだけだ。

吾妻町の通りを、西に向かって歩いてゆくと常盤町の通りに突きあたる。東西の吾妻町通りと南北の常盤町通りの交差点の東南の地に女紅場があった。女紅場は、遊女に勤めの隙に女工になれるように教導をする場として建設されたものだ。

この女紅場で、月に六回、遊女に対して検診が行なわれた。遊女が女紅場に出かける場合も仲居が付き添ってきた。遊女が検診を受ける間、仲居は階下で検診が終わるのを待っていた。検診を受ける場合でも、逃走を防ぐために仲居が監督をしているのであった。

東西の吾妻町通りと南北の常盤町通りの交差点の東南の地に女紅場があった(拡大画像:旭廊)

東西の吾妻町通りと南北の常盤町通りの交差点の東南の地に女紅場があった(拡大画像:旭廊)

明治四十四年に施行された『娼妓取締規則施行細則』の第八条は次のように定められている。

娼妓ハ前項ノ地域内(稼場所)ニ限リ外出スルコトヲ得。 但道路ニ佇立彷徨若ハ散歩シ又ハ劇場及寄席其ノ他公衆ノ群集スル場所ニ立入ルコトヲ得ス

道路を散歩することもできない。劇場に立ち入ることもできない。検診に出かける時も仲居が見張りとして付き添ってくる。 辛い勤めと自由を奪われた生活、重なってゆく借金。女紅場で病気が見つかった場合については『娼妓取締規則施行規則』第二十条は次のように記す。

娼妓黴毒ニ罹リ又ハ黴毒感染ノ誘因トナルヘキ症状アリト診断セラレタルトキハ三時間以内ニ駆黴院ニ入院スヘシ。但シ第十八条但書ノ場合ニ於テ三時間以内ニ入院スルコト能ハサルトキハ其ノ猶予ヲ警察官署ニ申請スヘシ

病気になれば、三時間以内に入院しなければならない。入院すれば、金もかかる。この世の地獄である。地獄の中で、何人かの遊女が生命を絶ってゆく。大正五年一月から十年一月までに二百九名の遊女が死亡している。この世で恵まれなかった遊女は、覚王山の日泰寺に眠っている。

地図


より大きな地図で 沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」 を表示