沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第3回「浅間横丁・うまいもの横丁」

浅間横丁・うまいもの横丁

富士浅間神社

富士浅間神社

頑丈な防火壁に囲まれているために、戦火を免れた神社がある。大須の富士浅間神社だ。防火壁は神社の南側に、今も赤茶けた色で神社を護るかのようにして建っている。

富士浅間神社が、現在の地に創建されたのは明応四年(一四九五)のことだ。後土御門天皇の勅命によって、時の駿河富士浅間神社の神主小林修理が、この地に勧請したのを由緒とする。 大永六年(一五二六)には、時の前津小林の城主、牧与三右衛門長清が、この神社を再興した。

長清は、織田信長の妹婿にあたる。彼は深く仏教に帰依し、敬神の念の篤い城主であった。特に富士浅間神社を崇信し、七度び参籠の祈願を起した。しかし、戦乱の世の城主が、城を留守にして七度も駿河の国に出かけることはできない。そこで長清は、居城(現在の矢場地蔵の地)に近いこの神社に祈願することにより、駿河の国の本宮に参拝することに代えた。元亀元年(一五七〇)、長清が亡くなった後も、その夫人(信長の妹)の手により、この神社は保護されてきた。

昭和十三年に刊行された『日本の大須』という小冊子がある。この本に大須の鳥瞰図が載っている。本町通りから大須観音に通ずる二本の道には、それぞれ入口に大きな看板が立っていた。仁王門通りは、大須の大提灯のネオンアーチだ。その北側の道、現在の大須観音通りには、大きな鳥居が建っていた。浅間神社の参道であるこの道は、浅間通りと呼ばれていた。

浅間神社を囲むように白い防火壁がそびえ立つ

浅間神社を囲むように白い防火壁がそびえ立つ

浅間通りから、神社の前を通り仁王門通りに抜ける道は、浅間横丁と呼ばれた。 また北側に宮田楼、栄泉堂、東宝大須劇場、南側に割烹泉竹、八千久漬物店にはさまれた小路は浅間小路と呼ばれた。横丁から大通りまで、浅間という俗名で呼ばれるほど浅間神社は、大須の町にとけこみ、大須の人々の篤い信仰をうけている神社であった。

浅間神社の浅間通りから仁王門通りに抜ける東側の道が浅間横丁、神社の西側にはうまいもの横丁があった。うまいもの横丁には、おでんの浦島、寝ざめそば、一杯飲屋の東京屋支店、天ぷらの天金が軒を連ねていた。

『日本の大須』は、天ぷらの天金を次のように紹介している。

うまいもの横丁に意気な天ぷらの店「天金」がある。江戸前の料理で、惜気もなく素晴らしい材料を使ふ。生きた海老が、新しい油でヂュウと狐色にあげられたのを見た時、思はず食欲が唆られる。 酒も灘の生一本、野菜天、海老天と舌の上でもつれ合ふ時、何とも言はれぬ味覚の陶酔境に置かれる。

寝ざめそばについては

江戸っ児が、そばは東京に限ると意張って居るが、もし寝ざめへ来たらそうした暴言ははかないだろう。現に東京の通人がわざわざ此處へそばを食いに来ると云ふ話だ。

と記している。 身びいきの誇張した表現かも知れないが、うまいもの横丁の店は、評判が評判をよんで多くの客をひき寄せた。

浅間通りから仁王門通りに抜ける東側の道が浅間横丁

浅間通りから仁王門通りに抜ける東側の道が浅間横丁

地図


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