沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第5回「たぬき山」

たぬき山

那古野山公園(浪越公園跡)の那古野山古墳

那古野山公園(浪越公園跡)の那古野山古墳

ホームレスが長いこと占拠していて、中に入ることを躊躇せざるを得なかった浪越公園が、平成十七年度に整備され、面目を一新してお目見えをした。

浪越公園は、明治十二年三月、名古屋最初の公園として開場した由緒ある公園だ。高瀬果之助、原正庶の二人が、時の県令安場保和に許可申請を出したのは明治九年のことだ。四年後にやっと申請は認められ、大須の盛り場にあるこの公園は市民に長いこと親しまれてきた。しかし、明治四十年浪越公園は廃園となる。大名古屋の唯一の公園が、たった六百坪では狭すぎるというのがその理由だ。

明治四十三年、新設の鶴舞公園が開場した。鶴舞公園が人々で賑わう一方、浪越公園はいつしかたぬき山と呼ばれる、人々の寄りつかない所となった。 開場まもない明治十年、この浪越公園に富士見台という高い櫓が造られた。高さは八間(約十四メートル)、櫓上の広さは二間(三・六メートル)四方であった。この櫓に上ると名古屋の街が一望できると評判を呼んでいた。遠くは富士の山も見えるというので、富士見台と名付けられた櫓は、大人二銭、小人一銭の入場料にかかわらず、いつも混雑をしていた。

公園の中心は、二百七十坪をしめる浪越山で、名古屋市内の平地で最も高い山であった。富士見台に上れば、富士山が見えたかどうか真偽不明であるが、西には多度、東には御岳、北には白山の山々を遠く見わたすことのできる絶景であった。 公園の中は、櫓だけではない。古木がこんもりと茂り、珍しい石や岩が公園の中の至る所に見られた。春には十数本の桜の古木を見る人々で賑わった。秋には楓の木が色づき、公園はえもいわれぬ美しさで彩られた。

大須清寿院:那古野山古墳(前方後円墳)の場所に修験道の寺院であった清寿院が建っていた。尾張名所図会(イメージ着色)

大須清寿院:那古野山古墳(前方後円墳)の場所に修験道の寺院であった清寿院が建っていた。尾張名所図会(イメージ着色)

公園の古木や名岩奇石は、公園を造るために新しく植えたり、運ばれたりしたものではない。この公園は、清寿院の庭を公園化したものである。清寿院は寛永十六年(一六三九)創建の修験道の寺院で、山伏の修業場であった。

清寿院は、醍醐三宝院の末寺で、尾張・美濃二国の修験者の先達をつとめ、富士浅間神社の別当寺である。慶長六年、清寿院の開祖、村瀬大円坊良清は、清須城主松平忠吉より修験頭を命ぜられる。慶長十五年(一六一〇)の名古屋の遷府の時には、現在の日出神社の地に社地を配領して、大須に移ってくる。さらに寛永十六年(一六三九)には、浅間神社、浪越公園一帯を含む広大な地を配領する。この地に清寿院を創建した良清は、日出神社の地の愛宕社を弟の良深に譲った。貞享元年(一六八四)には御深丸に鎮座していた飯綱明神を遷座し、堂宇を建立する。

広大な敷地の中に、樹木が生い茂り、山がある、そして法螺貝がひびき渡る、それが江戸時代の清寿院であった。 江戸時代、清寿院の境内に二ヵ所の芝居小屋があった。この小屋には、東西の名優が出演し、たいへんな評判をとった。芝居小屋があれば、茶店ができる。正門前には芝居の看板が立ち並び、門を入ると両側には茶店が立ち並んでいた。 この清寿院も明治六年の廃仏棄釈により、とりこわされる。

地図


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