沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第2講 豊竹小路から地獄谷 第6回「水天宮通り」

水天宮通り

雀荘と喫茶店に挟まれて清安寺の門が残っている

雀荘と喫茶店に挟まれて清安寺の門が残っている

北野天満宮の前の道を北に進んでゆくと行き止まりになる。行き止まりになった所に、古い門が残っている。清安寺の焼け残った門だ。門と呼ぶより、玄関という表現の方がふさわしいかも知れない。寺の門といういかめしい感じは、この門からうけない。民家の門が通りに面して建っている感じだ。今、寺はビルに変わり、周囲の状況は変わってしまった。しかし、戦火から焼け残ったこの小さな門からも、清安寺のかつての庶民的な雰囲気をうかがい知ることができる。

久野山清安寺と呼ぶより、この寺は大須の水天宮の名で通っていた。戦前の水天宮は、春には桜が境内いちめんに咲き乱れていた。花の下を丸髷に結った女性が、お札を受けにくる光景が境内のいたる所に見られた。水天宮は安産の神様である。

水天宮の祭神は、安徳天皇とその生母建礼門院、外祖母二位尼平時子である。 壇ノ浦の戦いで敗れた安徳天皇は、西海の荒波の中に藻屑と消えてしまう。建礼門院の女房、伊勢の局は、現在の久留米市に落ちのびてゆく。筑後川のほとりに小さな祠を建て、安徳天皇を祭ったのが、水天宮の起こりであるとされている。

いつしか人々から忘れ去られていた水天宮を再建したのは、久留米藩の藩主有馬忠頼だ。慶安年間(一六四八~一六五二)のことである。 東京日本橋にある水天宮は、文政元年(一八一八)有馬頼徳が三田の藩邸内に分社を設け、それが後に現在地に移されてきたものだ。 水天宮の名の通り、筑後川を水難、水害から護る水神として、この神社は久留米藩から厚い庇護を受けてきた。

尾張全図(江戸時代)の清安寺

尾張全図(江戸時代)の清安寺

いつしか江戸の水天宮は、水難、そして水は火を消すところから火を防ぐ神としても、人々から崇敬をうけるようになった。安産の神として知られるようになったのは、伊勢の局が祠を訪れた女性に、安産の加持祈祷を行なったところ霊験が著しかった伝説による。

明治天皇の御誕生にあたり、孝明天皇は久留米に勅使を遣わされて、加持祈祷を行なわれた。その縁により、明治元年には政府の御祈願所となる。 大須の水天宮は、天保九年(一八三八)に久留米の本社より、本殿を新築して分霊を勧請したものだ。 多くの参拝客を集め、大須の水天宮と親しまれていたにもかかわらず『名古屋市史 社寺編』は

現今の堂宇に、本堂、庫裏、門、鐘楼、鐘は寛文三年(一六六三)十月総見寺北禅の銘文あり。釈迦堂、水天宮等あり

と記しているにすぎない。

尾張名所図会に描かれているかつての清安寺

尾張名所図会に描かれているかつての清安寺

清安寺は、浄土宗京都知恩院の末寺だ。愛知郡南野村にあった阿弥陀堂を、正保三年(一六四六)久野七郎左衛門宗信が、亡き父久松院穏誉清安の菩提をとむらうために現在地に再興したのが、この寺の始まりだ。浮蓮社完誉月秀を開山とし、寺の名前も清安寺と改めた。 境内地は七百五十二坪であった。広大な敷地の中に鎮座する水天宮、その神社を多くの参拝客が訪れてくる。いつしか清安寺の前の道は水天宮通りと呼ばれるようになった。

地図


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