沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第4講 おからねこから七本松 第5回「大池」

大池

大池(年代不明)

大池(年代不明)

大池は前津の水田約十五町三段余の灌漑用水として元禄期(一六八八~一七〇四)にすでに開削されている。別名麹が池とも言った。池の面積は六千坪、周囲四町五十七間三尺、縦九十間、横六十七間あった。野中にある大きな池、そしてその池は麹のように澱んだ池であったので、大池あるいは麹が池と呼ばれていたのであろう。

周囲は高い堤に囲まれていた。堤の上からは八事の山や御器所の大薮が手前に広がり、遠くは恵那の山々が見わたせる眺望絶景の地であった。春ともなれば安政七年(一八六〇)二月に植えられた数十株の桜が池に華やかな彩りを添えた。水面に桜の花が散り落ちる様子は何ともいえない風情があった。池には舟を浮かべて遊ぶ人、堤で草摘みに興じる人、大池はいつも多くの人々で賑わった。

これらの行楽の人たちを相手とする掛茶屋が軒を並べていた。 大池は凧あげをする絶好の地であった。嘉永三年(一八五一)年末に刊行された『名区小景』に大池の凧あげを詠んだ歌が幾つか載っている。その中から二、三選んで紹介しよう。

きそひあくるいかの数さへおほ池は春めきぬらし水の心も    秀樹
きさらきや大池野へあこかれていかはかりかは風にまかする   利恭
春風に大池あたりのうねの波たこを揚人のあらす芋畑      長彦

正月と七月の二十六夜待ちでは、堤の上は月を待つ人でたいそう賑わった。二十六夜待ちとは夜半に月の出るのを待って拝することである。月光に阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が姿を現わすと言い伝えられていて江戸時代盛んに行なわれた月待ちのことだ。

『猿猴庵日記』の安永六年(一七七七)七月の項に、大池に三尊が姿をお現しになって大変な騒ぎが起こったと記されている。 阿弥陀仏が出現したといううわさが伝わると同時に、それを巧みに詠みこんだ歌が広まった。さらに歌に手ぶりを添えて「しよがへ しよがへ」という踊りが流行した。踊りの輪は名古屋の街のいたる所で見られた。

今としや世がよとて 仏さまのござって    町家在郷は丸抜けじゃ しよがへ    どんしやめ どんしやめ

この歌にあわせて踊りの行列は続く。

真宗大谷派福恩寺のお堂脇にひっそりと碑がたたずんでいる

真宗大谷派福恩寺のお堂脇にひっそりと碑がたたずんでいる

大池は遊びに来る人ばかりではない。世をはかなみ、池に身を投げる人もいた。大池の堤の上に、それらの人を供養する碑が立っていた。今、その碑は福恩寺に移され、境内に祀られている。 大池の埋めたてが始まった大正時代になってからだ。埋めたてにからむ疑惑事件が起り大正八年名古屋市会が紛糾した。『総合名古屋市年表大正編』は次のように記す。

六月十四日 都市計画岩井町線にからむ、池事件が熾烈化し、大岩名古屋市会議長辞任届を提出、同月二十一日の市会本会議において大岩前議長を、激しく糾弾し、波瀾万丈となる。

十八日には大喜多寅之助が議長に就任、しかし、事件はなかなか沈静しなかった。

福恩寺に残る供養碑

福恩寺に残る供養碑

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