沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第3回「赤福地蔵」

赤福地蔵

金仙寺. 写真左手の緑に囲まれた部分に赤福地蔵がある

金仙寺. 写真左手の緑に囲まれた部分に赤福地蔵がある

酒井順子のエッセー集『丸の内の空腹』(角川文庫) の中に、「銘菓を巡る出張」という、名古屋の名菓を紹介した一文がある。その一節に、赤福について、次のように書いている。

優秀な菓子が意外と多いのが、名古屋です。私は、学生時代まで名古屋という街へは行ったことがなく、会社に入ってから初めてでした。名古屋駅で驚いたのは、ホームの立ち食いそばがきしめんだったことと、いたるところで伊勢の「赤福」を売っている、ということ。 「赤福」といえば、そのナマモノ性の高さから、「週刊文春」の広告でお目にかかる他はあまり目にする機会が無いという私にとっては「幻の菓子」。それが、名古屋では土産物店に山積みにされているのです。私はそれだけで、 「名古屋はいい街だ!」 という確信を持ちました。

東京では、赤福は購入することのできない幻の名菓であることがわかる一文だ。

裏門前町通りを歩いていく。寺の前で、幟がはためいている。幟には「赤福地蔵」と染め抜かれている。珍しい名前のお地蔵さまだ。何かお地蔵さまにまつわるいわれがあるかも知れない。お地蔵さまの祀られている金仙寺に入ってゆく。住職を訪ねて、赤福地蔵のいわれを聞いてみた。

「門前町の辺りで、江戸時代、瘧が流行りました。大勢の人が亡くなりました。どうしたら病気から免れることができるか、死なないですむのか、藁にもすがる思いで、人々はあんころ餅をつくり、路傍のお地蔵さまに供えました。お祈りのため流行病はなくなりました」 あんころ餅は、餅が餡で包んであって赤い。病気から人々を救い、福をもたらした餅なので赤福餅だ。赤福地蔵の柔和な表情を見つめながら住職の説明を聞いていた。

赤福地蔵

赤福地蔵

伊勢神宮に名代の赤福餅がある。伊勢の赤福餅と赤福地蔵とは何のつながりもない。しかし、藩主宗春の時代に、すでに伊勢の赤福餅は名古屋の街で売られていた。 本町通りから東に入ると総見寺がある。総見寺の近くに、大きな樅の木が空高くそびえていた。いつしか本町通りから総見寺に入る道は、樅の木横町と呼ばれるようになった。樅の木横町の南角で、赤福餅は一つ三文で売られていた。

赤福餅が樅の木横町で売られるようになったのは、享保年間(一七一六~一七三六)の末のことだ。この時期、名古屋の街は、異常なほどの熱気につつまれていた。七代藩主として、宗春が名古屋に入ると、節約を奨励する将軍吉宗に対抗するかのように、遊郭を許可し、藩士の芝居見物を許したりなどした。名古屋の街は賑やかになり、人々は浮足だった。人々は遊郭で遊び、芝居見物を楽しんだ。人が集まれば、ものが売れる。さまざまな店ができた。名古屋が繁盛している様子を聞いて、他国からも商人が一旗あげようと名古屋に入ってきて商売を始めた。赤福餅も、そのうちのひとつだ。

赤福餅は宝永四年(一七〇七)の創業で、浜田治兵衛が五十鈴川近くに店を出したことに始まる。赤福餅の名は、伊勢参りの赤心慶福の文字をとって付けられたものだという。 名古屋の景気のよいことを聞きつけて、店を出したのは赤福餅だけではない。江戸からは幾世餅が名古屋に来て、店を構えた。

宗春の時代の名古屋の繁栄を描いた『享元絵巻』にも、門前町の幾世餅の店は描かれている。幾世餅は、門前町の極楽寺前の店の他、栄国寺筋、崇覚寺門前、葛町などにも店を出した。幾世餅の店が名古屋にあったのは享保十六年(一七三一)から元文三年(一七三八)までだ。この期間は、ちょうど宗春が藩主であった時代と一致する。宗春が名古屋に来るとともに、餅は売り出され、宗春が失脚するとともに、幾世餅は店をたたむ。 幾世餅は、餅皮で餡を包んだ餡餅で、江戸名物であった。

『幾世餅』という落語がある。米屋の職人が、吉原の花魁、幾世太夫の錦絵を見て一目ぼれ。恋わずらいにかかって寝こんでしまう。医者の藪井竹庵から、この話を聞いた米屋の主人は、「三年分の給金十両が太夫を座敷に呼ぶだけでかかる。お前が三年間、一生懸命働いたら、太夫に会わせてあげます」という。太夫に会いたい、ひたすらその思いだけで、職人は三年間一心不乱に働く。

三年後、竹庵の案内で吉原にあがった職人は幾世太夫と出会い、首尾よく思いをとげる。 「今度、いつ来てくれます」と太夫から言われ、職人は経緯を洗いざらいうちあける。感動した幾世太夫は「年季があけたら、女房にしてくれ」という。 一年後、晴れて一緒になった二人は餅屋を開き、幾世餅として売出し、大繁盛する。

同工異曲の落語に『紺屋高尾』がある。 こちらの方は、紺屋の職人が吉原一の傾城高尾太夫にほれるという話だ。 江戸の町奉行、根岸鎮(やす)衛(もり)の著述した『耳袋』(東洋文庫)の中に「両国橋幾世餅起立の事」が載っている。それによれば、晴れて一緒になった二人に、次のような事件が起きた。

吉原の遊女幾世を妻として両国橋で商売を始めた小松屋は、店に日本一流幾世餅と染めた暖簾をかけていた。浅草御門内藤屋市兵衛より「幾世餅という名の餅は、もともと私の所で売り始めたもので、暖簾も藤の丸の印を用いていました。近年、近所に同様の商売を始め、暖簾も藤の丸を用いている店があります。得心できません」と町奉行所に訴え出た。

町奉行、大岡越前守は、小松屋を呼び出して聞いた。 「私の妻は、吉原の遊女で幾世と呼ばれていました。私のところで売る餅も、しぜんと人々が幾世餅というようになりました。紋所は前々から使っておるものです」 両者の言い分を聞いた大岡越前守は「両者とも言い分は、もっともだ。私に考えるところがある。まかせてくれるか」と言った。藤屋、小松屋ともに「恐れ入ります」と平伏した。

「双方が近くで商売をしているので、こういう問題が起る。小松屋は妻の名を用いて商売をしている。藤屋は、前から幾世餅という名で餅を売っている。両者とも致しかたのないことだ。双方とも看板に江戸一と印し、今から江戸の入口にその訳を記すがよい。藤屋は四ッ谷内藤新宿に引越し、江戸一の看板を出す。小松屋は葛西新宿へ引越し商売をする。どちらも新宿という所なので、お前たちが同じ名前の餅を売って商売をしても、おかしくはないはずだ」と裁決をした。内藤新宿も葛西新宿も辺鄙な所なので、両者は相談して訴えを取り下げ、同じ場所で商売をつづけた。

東から幾世餅が名古屋に来れば、西からは草津名物の姥ヶ餅が名古屋に店を構えた。 場所は赤福餅と同じ樅の木横町だ。餅は一つ一文であった。 歌川広重の保永堂版東海道五十三次の草津宿の絵では、旅人がのんびりと姥ヶ餅を食べている図が描かれている。 草津名物の姥ヶ餅は寛文年間(一六二四~一六四四)、近江の郷代官六角左京太夫の子孫が滅亡された時、三歳になる遺児を養育するため乳母が商い始めた餅だ。その名物の餅が、門前町で売り始められる。 宗春治政下の名古屋本町通り、それは諸国からの旅人が往来する道であり、諸国からの名産が入ってくる道であった。街道沿いには、諸国の名産が売られていた。

地図


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