沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第5講 鳥屋横町から藪の町 第4回「経堂筋」

経堂筋

金剛山 長栄寺

金剛山 長栄寺

畏れという感情が喪失して久しくたつ。幼時の頃、夕方、ひとり鎮守の森の前を通り過ぎる時、何か慄然とした感情にとらわれた。お寺の前を通り過ぎる時も同じだ。 八事の親類を訪問した時のことだ。同じ道を何度も、くり返し通るだけで、親類の家になかなかたどり着くことができない。狐に化かされたのだと思った。 狐狸に化かされるということも、人魂が墓場の上を浮遊するということも、現在では遠い昔の出来事となってしまった。そんな話を持ちだせば、笑われるのが落ちだ。

明治の中頃、狸が出現して、通行人をだまして悪戯をする、人魂が浮遊するという通りが、下前津の地にあった。長栄寺の北側の東西の通りの経堂筋だ。経堂筋という俗名は、長栄寺の裏に経堂があった所から付けられた名前だ。経堂に隣接して、昼でも小暗い森があった。森の傍は桑畑だ。この森の中に、狸が棲息していた。狸は人家に出没して、よく悪戯をした。草履を隠して人々を困らせる。夕方には木綿をよる音をたてて、人々の耳をそばだたせる等という悪戯は序の口であった。時には質のよくない悪戯をして人々を困らせた。

ある人が、経堂筋の親類の結婚式に招待された。酒をしこたま飲み、夜おそく籠詰めのご馳走を下げて、経堂筋を千鳥足で歩いていた。突然、まっ暗闇の中に、大きな山が現れ、道をふさいでしまった。何事かと肝をつぶさんばかりに驚いたが、どうすることもできない。道端にへたへたと座りこみ、しばらくの間目をつむり、じっとしていた。いつしか山は消えていて、無事に家にたどり着くことができた。 経堂の墓地からは、人魂が空中を浮遊し、通行人を驚かせるということが、しばしば起った。

幕末から明治にかけて、名古屋は歌舞伎の名優を数多く輩出している。経堂筋の南側の家に誕生し、長くそこでくらしていたのが中山喜楽だ。 中山喜楽は、淡路島の出身で、上方歌舞伎で活躍していた中山喜楽の養子となって、その名を襲名したのが、経堂筋の中山喜楽だ。 喜楽は、当時の人気俳優坂東彦三郎に師事し、一時期坂東鶴五郎と名乗った時期もあった。嵐璃寛の指導を受けて、俳名薪獅は彼よりもらったものだ。

中年になり、名古屋にもどった喜楽は、名古屋の生んだ名優としてもてはやされた。彼の相手役をつとめたのが、前津土手町に住んでいた中村芝五郎だ。芝五郎の息子の芝三郎は、すこぶるつきの美貌であった。芝五郎は、息子に虫の付くのを恐れ、けっして独り歩きを許さなかった。銭湯に行くにも送り迎えをし、張番をつとめたという。佳人薄命のことば通り二十歳で早逝した。 中山喜楽も息子を明治二十八年に亡くしている。二十七歳の若さであった。

末広座の舞台で活躍する喜楽の名声は、ますます高まり、門人も多く集まった。そのうちのひとりが、京都から父親に伴われ入門した市川中車だ。明治三十五年の秋、喜楽は大須の歌舞伎座で引退興行を行なった。 名優の最後の舞台を見んものと多くの人々がかけつけた。

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