沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第6講 ねずみ坂・いたち坂 第5回「椿寺」

椿寺

夜のきらびやかな雰囲気とは違い午前中の女子大小路は人通りも少ない

夜のきらびやかな雰囲気とは違い午前中の女子大小路は人通りも少ない

俗名は時代の流れを反映している。栄町の角から松坂屋に向けての南大津通りを、ティシュ通りと呼ぶ人がいる。地下街から地上に出ると、すぐにティシュを渡されるからだ。 今は休眠状態だがナナちゃん人形も世相を反映した俗名だ。駅前で人と待ち合わせをする場合、ナナちゃん人形の前といえば、すぐにその場所を特定することができる。

新しい時代の流れのなかで誕生した俗名がいつしか市民権を得る。そしてその俗名は広く流布する。女子大小路などは、その典型的なものであろう。女子大小路は夜、眠らない街だ。ネオンがまたたき、カラオケで歌う声がどこからともなく聞こえてくる。

女子大と不夜城の街が、どのような関係があるか。それは、現在の東急ホテルの地に、中京女子大学があったからだ。内木学園の経営する学校が、大阪の谷岡氏にと経営が変わった。学校も、この地を去り、高校は東区、大学は大府市にと移っている。

バブル全盛の頃の女子大小路の賑わいは、すさまじいものがあった。忘年会の頃などにタクシーに乗り、女子大小路を通り抜けようとすると三十分近くもかかった。今思えば、それはうたかたの夢であった。

ビルに囲まれるように金剛寺がひっそりとたたずんでいる

ビルに囲まれるように金剛寺がひっそりとたたずんでいる

女子大小路の西の端、武平町通りを南に向けて歩いてゆく。ビルに挟まれた中に、由緒のある寺が建っている。室町時代に創建されたという金剛寺だ。この寺は戦災にあい、杉の町筋から、この地に移ってきた。

『金鱗九十九之塵』によれば、筋名の杉の町は、堀川にかかる中橋から高岳院の門前に至る長い筋であった。杉の町筋の由来については、金剛寺の門前の山林に、杉の大木が茂っていたので杉の町筋と名づけたとしている。 杉の町筋の中心が万屋町だ。

万屋町は清須越の当座は二丁目と呼ばれていた。二丁目は寛文元年(一六一六)に松屋町と改称される。改称の理由は、町名にある金剛寺の門の前に古松がそびえていたからだ。宝永五年(一七〇八)に、さらに万屋町と町名は変わる。三代藩主綱誠の娘、松姫が将軍綱吉の養女となったので、松の字の町名は恐れ多いという理由だ。

境内は椿を始めとした様々な木々が植えられている

境内は椿を始めとした様々な木々が植えられている

杉の町筋、松屋町の名前の由来となった金剛寺は、もともとは中島郡日下部村(稲沢市)にあったが、慶長年間(一五九六~一六一五)に、御園通りと伏見通りにはさまれた、杉の町筋の南側の地に移ってきた。

開基の山堂首座は、明応四年(一四九五)八月、摂津の国に生まれた。織田信長より寺領を拝領した関係で、信長の五十年の年忌を、自分の手で執り行なうことを念願としていた。寛永八年(一六三一)に念願の信長の遠忌法要をすますことができた。遠忌を終えると山堂首座は、いずこともなく飄然と行脚の旅に出かけてしまった。その時、百三十六歳であったが、いたって達者であったという。

金剛寺の境内に入ってゆく。参道の両側には、松や杉ならぬ椿の木が何十本も植えられている。椿の種類は一様ではない。内外をとわずあらゆる種類の椿の木が植えられていて、花の時期には、異なった種類の椿の花が、次から次にと花を開かせる。甘い花の香りが境内にただよう。金剛寺は椿寺だ。

地図


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