沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町」第7講 お小屋から七面横町 第2回「閲蔵長屋」

閲蔵長屋

東別院 - 尾張名所図会(イメージ着色)

東別院 - 尾張名所図会(イメージ着色)

『尾張名所図会』に詳細な東別院の図が載っている。もっとも東別院と呼んでいる一般的な呼称は、明治九年から使われ始めたものだ。現在でも、東別院の正式な名称は、真宗大谷派名古屋別院という。東本願寺は、明治初期教団の近代化を押し進めるにあたり、明治四年に坊官制を廃止し、明治六年には諸国御坊の称号を管刹とした。

元禄三年(一六九〇)の昔より、名古屋御坊、あるいは別名東掛所、東通所と呼ばれていた呼称も、明治に入り東別院と統一して呼ばれるようになった。しかし、時代は変っても、人々は東別院のことを敬意をこめ、あるいは親しみをこめて御坊様と呼んでいる。

天保十二年(一八四一)に成立した『尾張名所図会』を見てみると、文化・文政の名古屋御坊の大工事完成後の境内の様子を、よくうかがうことができる。完成直前の名古屋御坊を描いたのが『二十四輩順拝図絵』だ。『順拝図絵』には工事にとりかかる直前にふさわしく本堂再建のための作業場や作事小屋が描かれている。この本堂再建作業場が、『尾張名所図会』になると学寮に変っている。学寮とは、僧侶が学問を学ぶ場所のことだ。

『尾張名所図会』に描かれている学寮は、東裏門の南側にある。東裏門の北側には、会所が描かれている。東裏門には、橋が掛けてある。橋を渡れば、広場になっていて、子供たちは凧上げに興じている。屋台も何軒か店を出している。 『尾張名所図会』には、四棟の学寮が描かれている。四棟の学寮は、塀に囲まれ、樹木が鬱蒼と茂る林の中にあった。いかにも学問に専念することのできる静粛な雰囲気の中にあった。

『名所図絵』に学寮と記されているように、この建物は実質的には、学寮としての機能と性格を持っていたが、一般的には学寮という呼称を使うことは許可されていなかった。 京都には本山の学寮がある。本山の学寮は、東本願寺教団における唯一の教育機関である。本山では、おいそれと名古屋御坊の学寮設置を認めることはできない。名古屋御坊としても、学寮の設置を正面から願い出ても、本山から許可される可能性はない。

文政九年(一八二六)、名古屋御坊再建のための作事小屋を修繕して、長屋取建ての許可を求める願書を本山に提出した。 願書の内容は、

  • 一、門跡が名古屋御坊に来た時のお付の家中の宿舎とすること
  • 一、末寺僧侶の御経蔵拝見の時の場所とすること
  • 一、講釈中講者随従の所仕を収容すること

の三点の目的をあげ、長屋取建を願い出たものであった。学寮設置の願書では許可されない。それならば宿所を建てるという名目ならば文句はなかろうというわけだ。

文政十年に建立された長屋は、学寮とは呼ばず閲蔵長屋と呼ばれた。閲蔵長屋とは、僧徒に蔵経(一切経・大蔵経)を閲覧せしむる長屋という意味であった。 名目上は宿所であり、仏典を閲覧する閲蔵長屋が、本山から実質的な学寮としての認可をうけたのは、明治三年のことであった。

この学寮は、明治五年、「講究所」と改称し、さらに明治九年には「尾張小教校」と名称を変え、その後も何度も名前を変え、明治四十一年には文部省認可の中学校として「私立尾張中学校」となる。現在の瑞穂区高田町の尾張学園の前身にあたる学校だ。

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