この企画は、名古屋市博物館とNetwork2010が連携して名古屋開府から400年間の歩みを紹介するプロジェクトです。 | ||
第1回 名古屋城下の形成(江戸編 その1)
清州越し
清州は織田氏以来の城下町ですが、最初の尾張藩主徳川義直も最初は清州の城主だったわけです。(当時の)人口が武士と町人を会わせた人数で6~7万というふうにいわれております。
ところが清須というのは場所が狭いとか水害に遭いやすいという理由で、この名古屋台地(熱田台地)の北の端がふさわしいだろうということで、(当時)義直はまだ子供だったので家康の主導権のもとで、清州からお城と町が(名古屋に)移ったということです。
名古屋城下建設へ
名護屋図 江戸時代中期 名古屋市博物館蔵。18世紀半ば、寛延元年(1748)から宝暦13年(1763)までのころの名古屋城下と、宿場と港を擁して名古屋の外港の役割を果たしていた熱田を、一枚に描いた絵図。いわゆる沖積層。川が氾濫する所に(清州は)ありますので、水攻めに弱いということが台地の上ですとありません。
水害に逢う確立もお城も城下町も台地の上だからほとんどない。これがやっぱり一番大きな理由だったんじゃないでしょうか。
名古屋城が名古屋台地(熱田台地)の北西の端にあるということからも分かるように、一つは主要な敵を北や西の方に想定していた。これは名古屋城が出来た時は大阪城の豊臣秀頼が健在ですので、これに対して当たらなければいけないという名古屋城の軍事的な役割があるわけです。中心部に碁盤割のいわゆる町人の住むところを置きまして、その外側、東側と南側に中級の藩士を置いた。重臣は当然お城の側に住むわけですが、さらに中級藩士の住んでいる外側が寺(寺院群)であったということです。一般的には(寺の)境内が広いですから中級の藩士がいったん事があるとそのお寺に集まって軍勢を整えて外から来た敵にあたるといわれています。
初代藩主義直治世
義直は徳川家康の九男なんですが、お母さんは相応院という人で、京都の岩清水八幡宮の出身ということになっています。
名古屋城が出来た時には、まだ子供だったので家康が死んである程度してから成人して名古屋に来た。人柄というのはよく分かりませんが、一つは中国の儒学には関心があり、自分で勉強したり本を集めたりしていたようです。
徳川家なんですけど場合によっては将軍よりも朝廷を大事にしなければいけないという考えも義直の時からあったということです。この考えは幕末まで引き継がれて幕末の尾張藩の動向に大きな影響を与えているわけです。
堀川の開削
堀川観桜船図 江戸時代後期 名古屋城振興協会蔵堀川の出来た年については二つ位(説が)あるんですが、町が出来たときにはもうすでに(堀川が)無ければ築城等に支障があったということで1610年という年を採っています。堀川といいますが実際は運河です。もともとそこに川が流れていたのか、あるいは隣を流れていた江川(現在の江川線)という川がありますけど、江川だけしかなかったのかということは分からないわけですが、たとえ流れていたとしてもかなり掘り下げて深くしたんだと思います。
堀川沿いは尾張藩の蔵を含めて民間の商人の蔵とか尾張藩士とくに重臣の蔵屋敷などが立ち並んでいたところです。
商人もいろいろありまして、どちらかと言うと重い物を扱う商人はやはり堀川の側にいないと不便だと言うことで四間道(しけみち)も堀川の側ですので、堀川から運ばれてくるような物を扱うような人たちが住んでいた。具体的にはお米とか味噌とかお酒とか結構重いですから。それに対して呉服なんかは軽いですから別に堀川のあたりでなくてもいいわけです。
御船御行列図 享和2年(1802)頃成立 江戸時代後期写 高力猿猴庵画 名古屋市博物館蔵
御船御行列図 享和2年(1802)頃成立 江戸時代後期写 高力猿猴庵画 名古屋市博物館蔵。 享和2年9月15日に行われた聖聡院一行の船遊び行列を描いた絵巻。9代尾張藩主徳川宗睦の養子治行の正室従姫は、治行の没後に出家して聖聡院と名のる。享和2年(1802)聖聡院は廟所参詣のため帰国し、堀川で船遊びを楽しんだ。堀川を下る御座船を始めとした31隻の船行列が、両岸の風景とともに描かれている。
名古屋城下の大動脈 本町通
(本町通は)城下の南北に通じる大動脈ということになるわけですが、美濃路という街道に相当するわけです。
熱田から(清州~起~墨俣~大垣を経て)中山道に行くわけですが、これが名古屋の城下をまっすぐ通る(現在の伝馬町本町で分岐)、城下の中を本町通とか本町筋とか言っています。
熱田宿
熱田というのは門前町として栄え、名古屋の町より古くから町があるわけです。名古屋の城下が広がって行くと殆どくっつくんですが、一応別の町として考えられておりまして門前町という事だけではなく、東海道の七里渡しの港町でもあったわけです。
堀川にさかのぼる船の中継地ということもあり、港町、宿場町として栄え、名古屋の城下と非常に密接な関係があったということです。
熱田神宮自体が経済力をもってますし、江戸時代よりも古くから漁村としても栄えた場所でした。江戸になるとちゃんとした魚市場ができますが、魚は伊勢湾のいちばん奥ということでたくさん獲れて、漁民も多くいたということです。
熱田ヨリ桑名迄古図 江戸時代 鶴舞中央図書館蔵。宮宿から桑名宿まで、佐屋街道・佐屋の渡しの経路、および七里の渡しの航路が描かれている。さらに江戸時代中期以降、新田開発が進んだことによって、陸上の道(宮~下之一色~亀ヶ地~長島~桑名)もでき、それも描かれている。
新田の開発
この展覧会でも熱田新田と熱田前新田というのを取り上げているんですが、この新田はどちらかというと尾張藩が中心となって行ったものです。他の新田はひじょうにお金がかかると言うことで大商人が開発に乗り出すということです。もちろん商人ですから商人が農業をやるわけじゃなくて農民に貸して地代を取るというか小作料を取るというのが目的です。
広小路
名古屋大火図 大正年間写(鶴舞中央図書館蔵)。本図は万治3年の火災の範囲を示した絵図。南北の筋のうち西側から4本目が本町通で、城下を東西に分けているので、焼失区域の大半が城下町の東側であること、この地域の町屋はほとんど焼失を免れなかったことがわかる。広小路が出来るのは名古屋で大きな火事、万治の大火というのがありまして防火帯として造られました。当初は全部広げるつもりだったと思うんですけどこの時には半分くらいしか造られておりません。道が広くなりますのでいろんな見世物が出たりして非常ににぎやかな場所になるわけです。
二代藩主光友
徳川光友というのは尾張藩のいろいろ機構を整備したと言うこともありますが、特に今回の展覧会で大きく取り上げたのは、光友はお寺をたくさん造ったということです。義直が儒学に傾倒したのに対して、光友は仏教の方が大事だと考えまして、今回の展示では、建中寺、東本願寺掛所、および八事の興正寺という三つのお寺を取り上げています。三つとも光友の時に出来たものです。
建中寺は尾張藩の菩提寺ですが、あとの二つのお寺も光友が土地を寄進したりとか、建物を建てるための資金を出したりとか積極的に行っています。
梅孔雀・桐鳳凰図屏風 6曲1双 江戸時代中期 吉川知信筆(真宗大谷派名古屋別院蔵)。筆者の吉川知信は尾張藩御用絵師清野養山に狩野派の画報を学んだ画家。金箔地の上に紅梅と雌雄の孔雀
梅孔雀・桐鳳凰図屏風 6曲1双 江戸時代中期 吉川知信筆(真宗大谷派名古屋別院蔵)。筆者の吉川知信は尾張藩御用絵師清野養山に狩野派の画報を学んだ画家。金箔地の上に紅梅と雌雄の孔雀