三菱東京UFJ銀行貨幣資料館 - Network2010

三菱東京UFJ銀行貨幣資料館

※2009年4月20日に「三菱東京UFJ銀行貨幣資料館」が名古屋市東区赤塚町25番地に移転しました。このページの内容は移転前に取材した内容です。

民間では日本一のコレクション

三菱東京UFJ銀行貨幣資料館(旧東海銀行貨幣資料館)は、昭和36年に旧東海銀 行の創立20周年を記念して開館し、世界各国の珍しい貨幣約1万点を展示しています。
ここでは、日本だけでなく古今東西にわたる世界の貨幣を関係資料とともに体系的に展示しており、民間では日本一のコレクションと高く評価されています。

http://www.youtube.com/v/psNKuXEC1fk
三菱東京UFJ銀行 貨幣資料館(日本語版)

金のなる木(古代の貨幣製造方法)

江戸時代までの貨幣は鋳型の中に溶かした金属を流し込んで作る「鋳造」という方法で作られていました。

鋳銭用の地金[写真1・2]を耐熱性の粘土でできた坩堝(るつぼ)[写真3]に入れて加熱し、溶けた金属を粘土や石で作った鋳型[写真5・6]に流し込みます。
冷めてから鋳型を外すと流し込んだ金属が鋳型に沿って固まり、貨幣が木のように連なって出てきます。[写真7・8]
この鋳造してできあがった「金のなる木」から貨幣を一つずつ切り離し、砥石で磨くと貨幣が完成します。

鋳銭用銅地金と棹銅[写真1]鋳銭用銅地金と棹銅[写真1]

鋳銭用銅地金[写真2]鋳銭用銅地金[写真2]

宝永通宝鋳造の坩堝(宝永5年・1708年)[写真3]宝永通宝鋳造の坩堝(宝永5年・1708年)[写真3]

坩堝(るつぼ)解説[写真6]坩堝(るつぼ)解説[写真6]

石製の鋳型[写真5]石製の鋳型[写真5]

和同開珎の鋳型破片[写真6]和同開珎の鋳型破片[写真6]

鋳造してできあがった鋳放し銭(別名「金のなる木」)[写真7]鋳造してできあがった鋳放し銭(別名「金のなる木」)[写真7]

富本銭の金のなる木[写真8]富本銭の金のなる木[写真8]

戦国時代・江戸時代の金貨(大判・小判)

江戸時代にはいって徳川家康は金銀貨幣を統一しました。
金貨は一両小判・一分金などによる両・分・朱の名称で4進法がとられ(一両以上や一文銭は10進法)ました。

蛭藻金(戦国時代)蛭藻金(戦国時代):金の固まりを打ち伸ばして作った金貨は、水草の「ひるも」に似ていたので蛭藻金(ひるもきん)とよばれている

天正大判裏・表(天正年間・1573年~1591年)天正大判 裏・表(天正年間・1573年~1591年):豊臣秀吉が天下統一後につくった世界最大の金貨

慶長大判(慶長6年・1601年~)慶長大判(慶長6年・1601年~):江戸時代にはいって初めてつくられた大判

慶長小判(慶長6年・1601年~)慶長小判(慶長6年・1601年~)

元禄大判(元禄8年・1695年~)元禄大判(元禄8年・1695年~)

元禄小判(元禄8年・1695年~)元禄小判(元禄8年・1695年~)

宝永小判(宝永7年・1710年~)宝永小判(宝永7年・1710年~)

享保初期大判(享保10年・1725年~)享保初期大判(享保10年・1725年~)

享保小判(享保元年・1716年~)享保小判(享保元年・1716年~)

元文小判(元文元年・1736年~)元文小判(元文元年・1736年~)

文政小判(文政2年・1819年~)文政小判(文政2年・1819年~)

天保大判(天保9年・1838年~)天保大判(天保9年・1838年~)

天保五両判(天保8年・1837年~)天保五両判(天保8年・1837年~)

万延大判(万延元年・1860年~)万延大判(万延元年・1860年~)

万延小判万延小判

江戸時代の銀貨

銀貨は重さを量って使う秤量貨幣でした。
西日本では銀がよく採れたのと、中国やスペインとの貿易が銀中心だったため、銀貨は主に大坂を中心とした西日本で流通していました。

江戸時代の銀貨江戸時代の銀貨

露銀(つゆぎん)露銀(つゆぎん)

藩札

日本最初の藩札は、越前福井藩が寛文元年(1661年)に発行したものであると言われています。
藩札は、藩内の貨幣の不足を補い、通貨量の調整をするためにつくられました。
藩札には貨幣ではなく物品との兌換を明示したものもあり、「傘1本」や「炭1俵」などと書かれたものもありました。

藩札版木藩札版木

尾張藩尾張藩

尾張藩尾張藩

明治のお金

明治4年(1871年)に明治政府により藩札処分令が発せられ、藩札は廃止されました。
同年2月、現在の造幣局である造幣寮を開設し、5月に新貨条例を制定しました。新貨条例によって、それまで4進法と10進法が混在していた通貨制度を円・銭・厘による10進法に改めました。

貿易銀貿易銀

明治初期の貨幣明治初期の貨幣

符合泉志

平安時代から江戸時代初期に流通していた中国からの渡来銭は、寛永通宝の発行後、通貨としての機能を失い、収集の対象とされていました。
文政10年(1827年)、名古屋枇杷島の山田孔章が宋朝銭の拓影を「符合泉志」全3冊に編纂し、宋朝銭を分類できる唯一の参考書が誕生しました。

符合泉志とその版木符合泉志とその版木

符合泉志の版木符合泉志の版木

両替屋

江戸時代、両替屋は大名や庶民(商人)を相手に、預金・貸付の行っていました。また、金・銀・銅の三貨幣と藩札などの両替や、遠隔地との商取引にともなう支払の決済方法として為替業務も行っていました。

両替屋内部の様子両替屋内部の様子

お金の束お金の束

丁銀および豆板銀などの秤量銀貨を量るための分銅と天秤丁銀および豆板銀などの秤量銀貨を量るための分銅と天秤

千両箱・万両箱

名前の通り千両の貨幣を収納するための箱で、小判あるいは一分金を千両分収納します。これに習って一万両入る万両箱もつくられました。
用材は樫の木やヒノキが用いられ、角を鉄板などで補強している物が多くみられます。

千両箱千両箱

銭刀銭刀:財布の用も兼ねた旅行用の刀.旅中のスリ被害を防ぐために考案された

イスパニア銀貨イスパニア銀貨:南蛮貿易によって日本に持ち込まれたスペイン銀貨

財布

江戸時代に、藩札の流通とともに紙幣を入れる財布は広まりました。紙幣が流通する以前は、中央に穴があけられた硬貨が使われており、穴に紐を通して持ち運ばれていました。

財布財布

その他の展示

中国では、殷(およそ3000年前)の時代、貝が貨幣として使用されていました。周の時代には青銅貨が生まれ流通していました。

陶貨は第二次世界大戦中の金属不足によって代用貨幣として陶器で製造されました。しかし、すぐに終戦を迎えたため実際には使用されませんでした。

クレオパトラ銀貨は表にはクレオパトラの肖像が描かれ、裏には共同統治したアントニウスの肖像が描かれいます。

紀元前の中国貨幣紀元前の中国貨幣

紀元前の中国貨幣紀元前の中国貨幣

紀元前の中国貨幣紀元前の中国貨幣

紀元前の中国貨幣紀元前の中国貨幣

紀元前の中国貨幣紀元前の中国貨幣

ギリシャ最古の貨幣ギリシャ最古の貨幣

クレオパトラ女王の銀貨クレオパトラ女王の銀貨

ローマ帝国の貨幣ローマ帝国の貨幣

ビザンツ帝国の貨幣ビザンツ帝国の貨幣

ジェノバ 1トビア金貨(ルネッサンス時代の貨幣)ジェノバ 1トビア金貨(ルネッサンス時代の貨幣)

ナポリ 1デュカット金貨(ルネッサンス時代の貨幣)ナポリ 1デュカット金貨(ルネッサンス時代の貨幣)