伊勢湾台風の体験を語る 横井克宣さん - Network2010

伊勢湾台風の体験を語る 横井克宣さん

柴田駅前で居酒屋「幸楽」を営む横井克宣さんに戦中・戦後の名古屋の様子や、昭和34年の例の9月26日の伊勢湾台風の体験を語っていただきました。(2009年6月撮影)

伊勢湾台風の体験を語る 横井克宣さん

http://www.youtube.com/v/OgJyrqRdWPw

ニョキニョキ伸びるテレビ塔

南桑名町という所で育ったんですけどね。親父は料理屋をやってたんですけども、アマチュア映画の草分け的存在だったんですねぇ。戦争になるっていうんで5,6歳の時に今の知多の方に知多市の、ま、当時は朝倉海岸って言ってましたけども、そっちの方に疎開してたんです。

建設中のテレビ塔建設中のテレビ塔戦後復興で南桑名町から栄の南呉服町というところで、また料理屋を始めたものですから、自分たちも小学校の頃はお店へ遊びに行って、広小路の界隈は屋台もありましたし、今の三越ですね、あの裏は草ぼうぼうだったですねぇ。ですからエンゼル公園だとかテレビ塔の辺りは草ぼうぼうで。今はもう凄い街並みになってますけれど。オリエンタル中村の裏っかわで盆踊りとか、そういうのをやってましたねぇ。テレビ塔が松坂屋のビルの上をニョキニョキニョキニョキと建ち上がっていくというのは中学校時代に見てましたね。お堀の近くは進駐軍のカマボコ兵舎って言ってましたけどね、駐屯してましたね。あとは白川公園もアメリカ村って言ってましたから。

うちの父親が映像やってたもんですから、小さい内から8mmの映写係と、その当時は8mmは無声映画だもんですから伴奏っていうとSP盤を伴奏として流して映像の音楽として使ってましたねぇ。父親が映画で失敗して、まあ気苦労がたたったのかポックリ亡くなっちゃったんですね、昭和32年に。私が17の時ですね。大学卒業する時に長男も2週間ぐらい経って亡くなっちゃったんですね、昭和32年に。当時ですね、私が次男だったんですけど長男の代わりにになっちゃったんですね。

全国の職人が集う柴田で開店

横井さんが柴田で営業する居酒屋「幸楽」の看板横井さんが柴田で営業する居酒屋「幸楽」の看板横井さんが柴田で営業する居酒屋「幸楽」入り口横井さんが柴田で営業する居酒屋「幸楽」入り口柴田へ来たのは、ちょっとお知り合いの方が大同町の所ので工場をやってみえて「これからは柴田は発展するから」と言うんで、そういう意味で昭和33年にこの柴田へ初めて降りて、それで店を始めたんですね。

昭和33年頃ちょうど今の新日本製鐵の前身の東海製鉄って言いましたけども、東海製鉄のコンビナートというのを作るんで、まあその横にも大同製鋼さん、今の大同特殊鋼さんが知多工場を造るというんで造成をしたんですね。で、当時の造成の仕方っていうのが、サンドポンプといいまして海水と砂を引き上げてそれで陸地を作る。でその水が治まると陸地になるという、でその引き上げたそれを高炉として使って工場を造った時に全国から職人さんが来たんですね。

その時は柴田地区というのはもの凄く潤ったんです。ただ、喧嘩も多かった。やっぱり昔の職人さんというのは捻り鉢巻きで力と力の勝負みたいなもんですから。よくタクシーなんか停まってると、私らも名古屋から、神宮前からタクシーに乗ると(運転手さんが)「もう柴田だけは行きたくない」、(横井さん)「だったら私、助手席乗るから、お金だけ払うから、柴田降りたらもうすぐ発車してちょうだい」。柴田着くとねもう捻り鉢巻きの人がぱっと乗るんですよ。別に悪い人じゃないんですけどね、姿形見ると、お金はまぁタップリ持ってるんですけど、やっぱり職人さんですから威勢がいいもんですからねぇ。まぁそういう良き時代なんでしょうね、柴田が発展したのも。

伊勢湾台風で全部が海に

伊勢湾台風で道路も浸水(名古屋都市センター蔵)伊勢湾台風で道路も浸水(名古屋都市センター蔵)昭和33年の9月頃に開店したと思うんですけど、それで翌る年、昭和34年の例の9月26日の伊勢湾台風にやられまして。ここ(柴田)へ来たときは海抜0mとは知らなかったものですから。

天気はまぁ良かって、何かちょっと風が強くなってきたんですね、昼過ぎに。私もちょっと名古屋の方に用があったもんですから行ってたんですけども。電車乗って私が乗ったのが最後だったんですけども。まぁそれで商売止めればいいんですけど、月給日だし忙しいからというんで風が吹く中、暖簾は一応出したんですね。出したとたんに暖簾は飛んでいくわ、袖看板は飛んでいくわ。

今そういう台風情報というのは今みたいに発達してないもんですから。アメリカさんなんかねぇ、飛行機飛ばして台風の目へアメリカの飛行機を突っ込んでいって台風情報をもらうということで、ずいぶん情報が遅れてるもんですから、なんか凄い台風が来てるということはわかってたんですけども、これほどに凄い台風が伊勢湾の中を通過して悲惨な目にあったんですけども。

自分はそのぉ、ガラスがバリバリバリバリと風で飛ばされたりしてガラスを押さえてましたらね、その横から水がチョロチョロ流れてきたもんですから、どぶ板でも外れて水が飛び出したんだろうと思ったんです。ちょっとおかしいと思って二階に上がったんですね。で、次下りてきたときにはドワーっと水がもう押し寄せてきて、もう下りれない状態で階段上がって二階に上がったんですけど、その二階の畳までもう浮いちゃいましてね。ちょうど二階の畳が一尺上がったんですかね、水で。ちょうどさよりっていう魚がピョンピョン泳いでた状態で。ちょうどそれが少し経ったら水がおさまったもんですから。まぁ裏の方が風が当たらないもんですから雨戸開けてみたら、全部海なんですね柴田が。これはどういう状態なのかと。ともかく堤防がほとんど決壊しちゃいまして海面とそのあれと一緒になっちゃったんですね。

横井さんのお店の近くにある伊勢湾台風殉難者慰霊像横井さんのお店の近くにある伊勢湾台風殉難者慰霊像当時はあまりお店も少なかったですからねぇ。ただここは、うちがまだ柴田の駅の前だもんですから。名鉄の常滑線のホームがあったもんですから、あれで多少緩衝されて、水の勢いが止まったんですね。ホームの両側は流木っていって、裏に貯木場があったもんですから、大きなラワン材が流れてきましてね。まぁそりゃ見てた人はラワン材が縦になって流れてきて、それで家をつぶしたり、人がその中に巻き込まれて亡くなったり。この近辺でも結構何百人て方が亡くなってみえるみたいですねぇ。

自衛隊が来てくれましてねぇ。水陸両用艇だとか重機を持って、ほとんど自衛隊の人が復興してくれましたねぇ。今みたいにどこもそんなダンプもありませんし。それで空から情報を知ろうと思う、そういうヘリコプターも無いもんですから。柴田は割り早く情報がわかったんですけども、隣の宝生町なんかかえって浸かってる三日か四日送れて情報が流れたというちょっと悲惨なことがあったんですけどもねぇ。

元気な内はお店を続けたい

平成21年で(開店から)51年なんですけれど、大家さんが今のところ「出てきなさい」とは言わないもんですからお言葉に甘えて自分が元気な内は(続けて営業したい)。まあ私7月になると70(歳)ですけれど。まぁいつまでできるか。お客様が「止めるな、止めるな」言うんですけどねぇ。できる限りやりたいなと思うんですけどね。

(上のインタビュー動画から書き起こした内容です。)