本居宣長と商都松阪
松阪の地が本居宣長を生んだ
松阪城から見た松阪中心部松阪の町は、戦国時代に蒲生郷里(がもう うじさと)が築城した城下町として出発しました。江戸時代になってから松阪の町は紀州徳川家の支配下になり、1644年天守閣が台風のため倒壊しました。その翌年から松阪の町の歴史は大きく変わっていきました。和歌山へと通じる道が分かれて出来てゆきます、また熊野へ行く道も出来ます。街道の要衝として松阪の町は次第に力を持ってきます。この街道を使って松阪の商人たちが全国へ進出を始めてゆきます。三井家、長谷川家、小津家などの全国的にも名だたる豪商たちが登場してくるわけですが、豪商たちが蓄えたお金、情報、豊かな時間というものを背景として登場してきたのが本居宣長という人物です。
本居宣長六十一歳自画自賛像(本居宣長記念館蔵)本居宣長は1730年に本町の木綿商の息子として生まれました。商家の息子として生まれましたが、事情があり結局商売をやめて医者の道を選びます。そして松阪の町で医者をやりながら自分が好きな日本の古典のを研究します。そのとき本居宣長の大きな力となったのが松阪の経済力、地理的な条件、情報量といったものでした。
商家の主人たちは松阪におります。そして手代とか番頭が江戸、京都、大阪などで商売をする。主人のところへ逐一報告が入り、ひじょうに幅広い情報がもたらされる。しかも松阪の町は、伊勢神宮に向かう人たちが全国からこの町を通るので、その人たちからもたらされる全国の情報、またその人たちを使って全国に向かって情報発信をすることも可能でした。
宣長が11歳のとき父親が亡くなったこともあり、宣長12歳の時、宣長家族は魚町にあった隠居屋敷(宣長の祖父が建てた)に移ります。宣長12歳の少年時代から亡くなるまで、この隠居屋敷に住み続けます。この隠居屋敷が本居宣長旧宅といわれています。魚町にあった本居宣長旧宅を明治42年(1909年)、火災などから守る、またたくさんの人に見て頂こうということで松阪城蹟の中に移築しました。
松阪の名産品だった伊勢白粉と松阪木綿
松阪市立歴史民俗資料館2階に展示されている松阪縞の織機伊勢白粉(おしろい)と言いまして軽粉ともいいますが、多分約600年くらい前にこの近くの丹生(にゅう)という所に水銀の鉱脈がありまして、そこの水銀を使って射和(いざわ)の土とにがりとか塩を混ぜて四時間ぐらい熱して、きらきら光るきれいな伊勢白粉を製造しました。江戸や京都の女性にも人気のでたナンバーワンの白粉でした。これが伊勢の特産品として売れ射和(いざわ)の町が栄えたといわれています。
二階の展示は、松阪木綿。染料の藍は四国の方から取り寄せましたが、松阪縞(しま)といいまして、縞渡りデザイン・ストライプが江戸でずいぶん流行りました。また品質もよかったナンバーワンだと昔の文献にも書かれています。
松阪をさらに理解するヒント
松阪市立歴史資料館
松阪市立歴史資料館明治四十三年(1910)、飯南郡図書館として建設されました。昭和五十二年(1977)に図書館が別の場所に移転したため、現在は歴史民族資料館として使われています。
薬種商「桜井家」
松阪市立歴史資料館の1階展示 薬種商「桜井家」江戸時代に街道沿いの湊町に桜井さんという大きな薬屋がありました。主人の七郎右衛門(三代目)はお医者さんでしたが、売薬業も営んでいました。正徳六年(1716)五月、旅人が困っている様子をみて「萬能千里膏」(わらじずれの薬)と「黒丸子」(腹痛の薬)を作り、京都や江戸にも店を出し成功しました。享保十四年(1729)には紀州徳川家から伊勢三領売薬元締役御免を仰せつけられました。
松阪木綿
藍で染められた糸(松阪市立歴史資料館)江戸時代の初期から伊勢商人の目玉商品だった松阪木綿は<松阪縞>として親しまれ、洗うほど色のさえてくる藍染めを基調とした縞柄と、たて糸によりをかけない生糸を織り込んだのが魅力でした。そして松阪木綿は、地綿から糸を紡ぎ、松阪周辺の農婦たちの手で織りあげたものが中心で、糸染用の藍は阿波から運ばれ土地の紺屋で染められ、品質は江戸中期の百科事典「和漢三才図会」が「勢州を上とす」と最高に評価しています。
伊勢おしろい
軽紛販売用ケース(松阪市立歴史資料館)軽紛の素になる実土(みずち)と呼ばれる赤土(松阪市立歴史資料館)射和の軽紛は水銀と塩と苦汁(にがり)と実土(みずち)と呼ばれる赤土を用いて製造されていました。実土とは、射和の東北にある朱中山から取れる赤土で、釜元はこの土でなければならないと、数百年にわたり使用してきました。
松坂町図
松坂町図(本居宣長記念館)本居春庭写(十七歳)。当時の松坂(現在の松阪氏市街地一帯)は、紀州徳川家が支配していました。人口は約一万。本図は城を中心に形成された町の様子がよくわかります。長く左右に延びるのが参宮街道です。
松阪の一夜
松阪の一夜(本居宣長記念館)
万葉集(本居宣長記念館)宝暦十三年(1763)五月二十五日、宣長が三十四歳のとき松阪日野町の旅籠・新上屋で、賀茂真淵(当時六十七歳)と対面しました。生涯ただ一度きりの対面でしたが、以後、宣長は真淵に入門。書簡で質疑応答をするという、今の通信教育で、真淵が没するまで指導を受け、「古事記伝」執筆の基礎を築きました。「古事記」を読みたければ、まず「万葉集」を勉強しなさいと真淵は宣長に教えました。
本居宣長旧宅(隠居屋敷)
本居宣長旧宅(隠居屋敷)本居宣長旧宅跡この家は本居宣長が十二歳のときから、亡くなる七十二歳まで住んだところで、彼の祖父が隠居所として元禄四年(1691)に建てたものです。宣長は、この家で医者としての仕事をし、古典の講義をしたり、歌会を開いたりしました。二階の書斎は、宣長が五十三歳のとき、物置を改造して設けたもので、床の間の柱に掛鈴を下げていたことから「鈴屋」と呼ばれました。
旧松坂御城番屋敷
旧松坂御城番屋敷この長屋建物は、松坂藩御城番、四十石取りの紀州藩士二十人の組屋敷として、文久三年(1863)に建築されました。主屋二棟(東棟・西棟)・前庭・畑・南龍神社・土蔵からなり周囲に槙垣を巡らしています。
御城番屋敷 土蔵
御城番屋敷 土蔵平屋建、桁行十二間半、梁行三間、切妻造、桟瓦葺、南面及び西面は土庇桟瓦葺の建物です。外回りは、背面と東側面、正面の土庇上部では壁面を下見板で覆い、その他は漆喰塗り仕上げの白壁です。内部は、西から桁行四間、六間半、三間の三分割され、それぞれ戸口が開かれ、中央と東の区画では二層に床が張られています。この土蔵は、江戸時代末期に松坂城内の隠居丸に建てられていた三棟の土蔵のうちの米蔵で、明治初期に現在地に移築されました。
長谷川家
長谷川家長谷川家は、江戸時代以来、三井家・小津家・長井家とともに、松阪を代表する江戸店持ちの豪商です。松阪木綿を中心とする伊勢国産の木綿や、尾張・三河の木綿を仕入れ、これを江戸店で販売など、その殆どを木綿ひとすじに江戸時代を歩んできました。
小津清左衛門家(松阪商人の館)
松阪商人の館 内部松阪商人の館 外観松阪商人の館は、江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しています。前の道はお伊勢参りの旅人が行き交った伊勢街道(参宮街道)です。