美濃路 東海道・美濃路の追分(熱田) - Network2010

美濃路

東海道・美濃路の追分(熱田)

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美濃路、東海道追分

美濃路の起点は名古屋市熱田区伝馬1丁目、東海道と分岐する追分に始まります。
東海道はここで南東方向に直角に折れ、七里の渡し場(神戸方面)に向かいます。
美濃路は北西方向に曲がり熱田神宮に至ります。この追分の正面には、戦後まで上知麻我神社(源太夫社)が建っていました。上知麻我神社は「知恵の文殊さま」と呼ばれ、古くから知恵の神様として崇拝されていました。現在、熱田神宮境内に移転されています。

江戸時代の熱田江戸時代の熱田(黄線が東海道、オレンジの線が美濃路)

東海道と美濃路の追分東海道と美濃路の追分

追分の道標追分の道標

道標の向かいにある「ほうろく地蔵」。以前は上知麻我神社(源太夫社)が建っていた。道標の向かいにある「ほうろく地蔵」。以前は上知麻我神社(源太夫社)が建っていた。

江戸時代の上知麻我神社(源太夫社) - 尾張名所図会江戸時代の上知麻我神社(源太夫社) - 尾張名所図会

明治時代の上知麻我神社(源太夫社)明治時代の上知麻我神社(源太夫社)

熱田神宮に移転した上知麻我神社(源太夫社)熱田神宮に移転した上知麻我神社(源太夫社)

追分から本町通(美濃路)へ

熱田神宮正門(南)。美濃路はこの正門をくぐらず左へ曲がる熱田神宮正門(南)。美濃路はこの正門をくぐらず左へ曲がる熱田神宮正門(南)から道路を挟んで追分をのぞむ熱田神宮正門(南)から道路を挟んで追分をのぞむ追分から、途中で国道1号線を超え、50mほど進むと熱田神宮につきあたり左に折れ100mで国道19号線(伏見通)にあたり、右に折れて伏見通を北に進みます。現在は国道19号線の一部となっていますが、戦前までは中区の橘町まで本町通でありました。
本町通は、名古屋城築城時に熱田から名古屋城へ通じる幹線道路として建設され、国道19号線(伏見通)の中央部を走っていました。現在でも熱田から橘町にかけての国道19号線(伏見通)沿いに多くの寺院が点在するのはその名残です。

熱田神宮

熱田神宮の起源は第12代景行天皇の時代に遡ります。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰途、尾張の地で宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚しました。その後、日本武尊が亀山市能褒野(のぼの)で没したため、宮簀媛命が日本武尊の形見である草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を熱田の地に奉納し、祀ったことに始まるとされています。
また熱田神宮は、仙人の住む蓬莱島の異名を持ち、名古屋城は熱田神宮の左側にあることから蓬左城とも呼ばれていました。

熱田神宮本殿熱田神宮本殿

本殿に手を合わせる人々本殿に手を合わせる人々

信長塀(左)と西楽所(右奥)信長塀(左)と西楽所(右奥)

日本三大塀の一つ「信長塀」日本三大塀の一つ「信長塀」

信長塀の解説信長塀の解説

弘法大師お手植えとされる大楠弘法大師お手植えとされる大楠

大楠の解説大楠の解説

清雪門(不開門)清雪門(不開門)

清雪門の解説清雪門の解説

源頼朝の生誕地 誓願寺

誓願寺の山門と石碑誓願寺の山門と石碑源頼朝出生地の解説源頼朝出生地の解説熱田神宮に沿って北上すると左手に誓願寺の山門が見えてきます。
山門の脇に「右大将頼朝公誕生舊地」いう石碑が建てられています。熱田大宮司藤原季範の娘、由良御前は源義朝の妻となり源頼朝をここで産んだと伝えられています。境内には「産湯の井戸」が残っています。

白鳥古墳と法持寺

法持寺山門法持寺山門法持寺境内から白鳥古墳をのぞむ法持寺境内から白鳥古墳をのぞむ白鳥古墳白鳥古墳誓願寺から西へ250m行った堀川沿いに白鳥古墳があります。
白鳥古墳は、5世紀末頃から6世紀前半頃に築造された前方後円墳で、全長が約74m、最大幅25mの大きさを持ちます。法持寺のすぐ隣にあり、白鳥となってこの地に戻った日本武尊の墓と伝えられています。

鷲峯山古墳

鷲峯山古墳鷲峯山古墳鷲峯山古墳の解説鷲峯山古墳の解説神宮西の交差点から約250m鷲峯山(だんぷやま)古墳の手前にあるのが熱田神宮二の鳥居です。江戸時代、熱田神宮のまわりには八つの鳥居があったといわれています。鷲峯山古墳は東海地方最大の前方後円墳で、前方部111m、後方部74mの幅があり、江戸時代には年に一度この墳墓にのぼることが許されていました。

白鳥公園

白鳥庭園白鳥庭園白鳥太夫堀白鳥太夫堀堀川を挟んだ鷲峯山古墳の西側は、江戸時代には御船蔵や御材木場があり、現在は公園として整備されています。白鳥庭園や太夫掘、cop10の会場となる国際会議場が並んでいます。

一の鳥居

石碑と金山南ビル石碑と金山南ビル一の鳥居跡の石碑一の鳥居跡の石碑一の鳥居 - 尾張名所図会一の鳥居 - 尾張名所図会西高蔵の交差点を過ぎ、尾頭の交差点の手前に本町通をまたぐように一の鳥居が建てられていました。一の鳥居は熱田神宮周辺の八つの鳥居のなかでもひときは大きく、三丈五尺(11.6m)もあったといわれています。

名古屋の名景 妙安寺

沢観音妙安寺沢観音妙安寺住吉神社住吉神社一の鳥居をくぐり美濃路(本町通)の左手奥に道をはさんで沢観音妙安寺と住吉神社が並んでいます。
沢観音は熱田の宮の周辺にあった四観音の一つで、遠く鈴鹿山系も望まれた名古屋三景のひとつであったといわれています。

佐屋街道と三里の渡し

新尾頭の交差点から250m行き、名古屋ボストン美術館の入っている金山南ビルの交差点を左に曲がると、佐屋街道に通じます。佐屋街道は佐屋の渡しに通じる道で、木曽川を三里下って桑名宿に到達します。七里の渡しの迂回路として使われていました。

小栗街道

金山総合駅を右手に見て橋を渡ると古渡に入ります。かつて古渡は美濃路で最初の一里があった場所です。古渡を過ぎると山王です。山王には宿と宿の間にあって旅人が休息する立場がありました。小栗街道(鎌倉街道)が山王稲荷の前(現在の山王通あたり)を通っていた。小栗街道は小栗橋をわたり、萱津を通り京都へと通じていました。

東本願寺名古屋別院

東本願寺名古屋別院東本願寺名古屋別院古渡城跡古渡城跡古渡の交差点を右に山王通を200mほど東に行くと東別院の山門が目前に見えてきます。
古渡城跡の解説古渡城跡の解説東別院東別院は1690年、尾張藩主徳川光友より織田信長の父信秀の居城「古渡城」の跡地1万坪の寄進を受けて建てられました。明治初期には愛知県庁が名古屋城内から移転されたこともあります。真宗大谷派の寺院です。

橘町界隈

芝居小屋の解説(現愛知産業大工業高校)芝居小屋の解説(現愛知産業大工業高校)美濃路は古渡の交差点を越え、斜め北東に折れ国道19号線と分岐し橘町へと入ります。橘町には大木戸が設けられていました。橘町の大木戸は名古屋城下の境界とされ、夜間は閉められていました。ここから大須交差点までの約650mの美濃路(本町通)の両側には妙善寺、栄国寺などの寺院や芝居小屋が点在していました。

崇覚寺の南、現在の愛知産業大工業高校の場所にあった芝居小屋は、第七代尾張藩主宗春の時代に隆盛をきわめました。栄国寺のある場所は、尾張藩の刑場で千本松原と呼ばれ、多くのキリシタンも処刑されました。尾張藩主徳川光友は刑場を土器野(かわらけの - 現清須市)に移転し、跡地に栄国寺を建立しました。境内に切支丹遺跡博物館があり、踏み絵などが展示されています。

切支丹処刑地跡・無縁仏埋葬地切支丹処刑地跡・無縁仏埋葬地

切支丹処刑地跡・無縁仏埋葬地の解説切支丹処刑地跡・無縁仏埋葬地の解説

栄国寺 山門栄国寺 山門

栄国寺 本堂栄国寺 本堂

栄国寺 本堂。随所に金装飾がみられる栄国寺 本堂。随所に金装飾がみられる

明治維新時に葵紋をはぎ取られた瓦(栄国寺)明治維新時に葵紋をはぎ取られた瓦(栄国寺)

切支丹博物館(栄国寺)切支丹博物館(栄国寺)

妙善寺 山門妙善寺 山門

妙善寺 本堂妙善寺 本堂

西別院、葛飾北斎の達磨絵

戦災を逃れた鐘楼戦災を逃れた鐘楼西本願寺名古屋別院西本願寺名古屋別院大須交差点の手前左手に真宗大谷派、 西本願寺名古屋別院があります。慶長14年(1609年)の「清須越し」で名古屋に移転されました。
文化14年(1817)葛飾北斎が境内で、120畳敷きの達磨の大画を描き注目を集めたことでも有名です。明治6年(1873年)には、名古屋大学医学部の前身、医学講習所が境内に置かれていました。

七ッ寺と大須観音

岩井通をはさんで北側に七ッ寺、さらにその北、伏見通の西に大須観音があります。江戸時代、東別院から白川公園にかけての美濃路(本町通)沿いには多くの寺院が建立され、南寺町と呼ばれていました。

七ツ寺境内 - 尾張名所図会七ツ寺境内 - 尾張名所図会七ッ寺は天平七年(735)尾張国中島郡に行基上人によって創建されたと伝えられています。天正十九年(1591)清洲城下に再建された後、清洲越しによって現在地に移転されました。境内には徳川光友により寄進された三重の塔が建っていました。

大須観音大須観音大須観音は真言宗の寺院で、正式名称は「北野山真福寺宝生院」です。元弘3年(1333)に現在の羽島市の大須郷に僧能信が創建したのが始まりとされています。清州越しにともなって現在地に移転されました。『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」があることでも有名です。

織田信長の菩提寺 総見寺と織田家の菩提寺 万松寺

織田信長の菩提寺 総見寺織田信長の菩提寺 総見寺大須観音の西側、本町通を少し入ったところに織田信長の菩提を弔う総見寺があります。この寺も清州越しにより名古屋に移されました。門前町とは総見寺門前を意味し、境内には信長公、信雄公の廟があります。

総見寺の南東にある万松寺は,天文9年(1540年)、織田家の菩提寺として織田信秀が開きました。信長の父・織田信秀の葬儀で、うつけと呼ばれた信長が抹香を位牌に投げつける場所として有名です。那古野城の南側に広大な寺領を持っていたが、名古屋城下(碁盤割)建設で現在地に移転されました。

南寺町北端の寺院群(白川公園)

現在の白川公園現在の白川公園七ツ寺境内 - 尾張名所図会七ツ寺境内 - 尾張名所図会美濃路(本町通)は、若宮大通を超え左手に白川公園を見て広小路へと進んでいきます。戦前までの白川公園は、南寺町の北端に位置し十王堂、隆正寺、光明寺、願故院、寿経寺、誓願寺、養林寺、大林寺、芳春院、西光院、法應寺、西光院、仙昌院、宝珠院、大運寺、尋盛寺、瑞宝寺、法蔵寺、徳林寺など大小の寺院が集中していました。

戦後、昭和33年(1958年)まで進駐軍のキャンプとして接収されていました。返還後は公園として整備され、名古屋市美術館や名古屋市科学館が建設されました。

関連動画

http://www.youtube.com/v/CvJ31Fjzsz0
名古屋 本町物語
名古屋城下を熱田から名古屋城まで南北に走る本町通を、周辺の史跡や寺社と共に紹介しています。