東海道・美濃路の追分(熱田)
美濃路、東海道追分
美濃路の起点は名古屋市熱田区伝馬1丁目、東海道と分岐する追分に始まります。
東海道はここで南東方向に直角に折れ、七里の渡し場(神戸方面)に向かいます。
美濃路は北西方向に曲がり熱田神宮に至ります。この追分の正面には、戦後まで上知麻我神社(源太夫社)が建っていました。上知麻我神社は「知恵の文殊さま」と呼ばれ、古くから知恵の神様として崇拝されていました。現在、熱田神宮境内に移転されています。
江戸時代の熱田(黄線が東海道、オレンジの線が美濃路)
熱田神宮
熱田神宮の起源は第12代景行天皇の時代に遡ります。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰途、尾張の地で宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚しました。その後、日本武尊が亀山市能褒野(のぼの)で没したため、宮簀媛命が日本武尊の形見である草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を熱田の地に奉納し、祀ったことに始まるとされています。
また熱田神宮は、仙人の住む蓬莱島の異名を持ち、名古屋城は熱田神宮の左側にあることから蓬左城とも呼ばれていました。
佐屋街道と三里の渡し
新尾頭の交差点から250m行き、名古屋ボストン美術館の入っている金山南ビルの交差点を左に曲がると、佐屋街道に通じます。佐屋街道は佐屋の渡しに通じる道で、木曽川を三里下って桑名宿に到達します。七里の渡しの迂回路として使われていました。
小栗街道
金山総合駅を右手に見て橋を渡ると古渡に入ります。かつて古渡は美濃路で最初の一里があった場所です。古渡を過ぎると山王です。山王には宿と宿の間にあって旅人が休息する立場がありました。小栗街道(鎌倉街道)が山王稲荷の前(現在の山王通あたり)を通っていた。小栗街道は小栗橋をわたり、萱津を通り京都へと通じていました。
橘町界隈
芝居小屋の解説(現愛知産業大工業高校)美濃路は古渡の交差点を越え、斜め北東に折れ国道19号線と分岐し橘町へと入ります。橘町には大木戸が設けられていました。橘町の大木戸は名古屋城下の境界とされ、夜間は閉められていました。ここから大須交差点までの約650mの美濃路(本町通)の両側には妙善寺、栄国寺などの寺院や芝居小屋が点在していました。
崇覚寺の南、現在の愛知産業大工業高校の場所にあった芝居小屋は、第七代尾張藩主宗春の時代に隆盛をきわめました。栄国寺のある場所は、尾張藩の刑場で千本松原と呼ばれ、多くのキリシタンも処刑されました。尾張藩主徳川光友は刑場を土器野(かわらけの - 現清須市)に移転し、跡地に栄国寺を建立しました。境内に切支丹遺跡博物館があり、踏み絵などが展示されています。
七ッ寺と大須観音
岩井通をはさんで北側に七ッ寺、さらにその北、伏見通の西に大須観音があります。江戸時代、東別院から白川公園にかけての美濃路(本町通)沿いには多くの寺院が建立され、南寺町と呼ばれていました。
七ツ寺境内 - 尾張名所図会七ッ寺は天平七年(735)尾張国中島郡に行基上人によって創建されたと伝えられています。天正十九年(1591)清洲城下に再建された後、清洲越しによって現在地に移転されました。境内には徳川光友により寄進された三重の塔が建っていました。
大須観音大須観音は真言宗の寺院で、正式名称は「北野山真福寺宝生院」です。元弘3年(1333)に現在の羽島市の大須郷に僧能信が創建したのが始まりとされています。清州越しにともなって現在地に移転されました。『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」があることでも有名です。
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名古屋 本町物語
名古屋城下を熱田から名古屋城まで南北に走る本町通を、周辺の史跡や寺社と共に紹介しています。