江戸時代 - 名古屋城築城
清洲城下図江戸時代の当初は、尾張の中心は清州にありました。徳川家康は四男松平忠吉を藩主に任じ、統治に当たらせていました。しかし慶長十二年(1607年)忠吉は若くして夭逝しました。家康はその後任に甲府藩主であった第九子の徳川義直を甲府より移封しました。
義直の家臣山下氏勝は、水利には勝っているが五条川の氾濫や水攻めに弱いことも藩都の移転を決めました。築城にあたり、名古屋、古渡、小牧などが候補地に選ばれましたが、アクセスや防御の面を考慮した結果、名古屋台地の北端の名古屋の地が選ばれました。家康は、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、福島正則などの豊臣恩顧の西国大名に築城を命じました。
名古屋城-尾張名所図会
江戸時代の名古屋城図二の丸御殿平面図慶長15年(1610年)にはじまった築城は約4年の歳月を経て完成しました。同時に城下町の建設や堀川の開削なども進められ、藩都は清州より名古屋に移転され、後に「清州越し」と呼ばれています。
五層五階の天守閣を持ち、屋根には金鯱が燦然と輝き名古屋城下を見下ろしていました。本丸には本丸御殿が造営され、元和6年(1620年)将軍上洛時には上洛殿が増築され以後、御成り専用に使用され、居住や政務は将軍の御座所として使われていた二之丸御殿を改修して使用しました。敷地内には、日本で最大規模の広大な二之丸庭園があり藩主専用の庭としてつかわれていました。
明治時代 - 名古屋城取り壊しの危機
明治10年の名古屋城地図明治末頃の名古屋城地図大政奉還によって徳川政権が滅亡し明治政府が樹立されると、全国的に城の取り壊しが行われました。
尾張藩は名古屋城の取り壊しを新政府に申し出たが、ドイツ公使マックス・フォン・ブラントの助言などもあり、天守閣と本丸御殿は残されることになりました。解体のため降ろされた金鯱の一つがウイーン万博に出展され、帰国後、日本全国で公開されました。その後金鯱は、取り壊しの危機を乗り越えた名古屋城天守閣に戻されました。
三之丸は、江戸時代には上級武士の屋敷や、東照宮や亀尾天王社(現在の那古野神社)などが建ち並んでいました。明治時代に入ると、上級武士の屋敷は取り壊され、東照宮や亀尾天王社は明治9年(1876年)場外に移転されました。
名古屋城内は陸軍省の所管となり明治6年(1873年)に名古屋鎮台が置かれた。明治21年(1888年)、名古屋鎮台は第三師団と改称された。解体された二之丸御殿の跡には歩兵第六連隊、三之丸には第三師団の歩兵連隊、騎兵連隊、砲兵大隊、輜重兵(しちょうへい)大隊、師団司令部、旅団指令部、衛戌(えいじゅ)病院などが置かれた。
明治26年(1893年)名古屋城天守閣と本丸御殿のある本丸は、宮内省に所管が移され皇室関係者が利用する名古屋離宮になった。
名古屋城と本丸御殿
名古屋城と本丸御殿を紹介します。