名古屋宿
七ッ寺と大須観音
七ツ寺境内 - 尾張名所図会岩井通をはさんで北側に七ッ寺、さらにその北、伏見通の西に大須観音があります。江戸時代、東別院から白川公園にかけての美濃路(本町通)沿いには多くの寺院が建立され、南寺町と呼ばれていました。
七ッ寺は天平七年(735)尾張国中島郡に行基上人によって創建されたと伝えられています。天正十九年(1591)清洲城下に再建された後、清洲越しによって現在地に移転されました。境内には徳川光友により寄進された三重の塔が建っていました。
大須観音大須観音は真言宗の寺院で、正式名称は「北野山真福寺宝生院」です。元弘3年(1333)に現在の羽島市の大須郷に僧能信が創建したのが始まりとされています。清州越しにともなって現在地に移転されました。『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」があることでも有名です。
織田信長の菩提寺 総見寺と織田家の菩提寺 万松寺
織田信長の菩提寺 総見寺大須観音の西側、本町通を少し入ったところに織田信長の菩提を弔う総見寺があります。この寺も清州越しにより名古屋に移されました。門前町とは総見寺門前を意味し、境内には信長公、信雄公の廟があります。
総見寺の南東にある万松寺は,天文9年(1540年)、織田家の菩提寺として織田信秀が開きました。信長の父・織田信秀の葬儀で、うつけと呼ばれた信長が抹香を位牌に投げつける場所として有名です。那古野城の南側に広大な寺領を持っていたが、名古屋城下(碁盤割)建設で現在地に移転されました。
南寺町北端の寺院群(白川公園)
現在の白川公園七ツ寺境内 - 尾張名所図会美濃路(本町通)は、若宮大通を超え左手に白川公園を見て広小路へと進んでいきます。戦前までの白川公園は、南寺町の北端に位置し十王堂、隆正寺、光明寺、願故院、寿経寺、誓願寺、養林寺、大林寺、芳春院、西光院、法應寺、西光院、仙昌院、宝珠院、大運寺、尋盛寺、瑞宝寺、法蔵寺、徳林寺など大小の寺院が集中していました。
戦後、昭和33年(1958年)まで進駐軍のキャンプとして接収されていました。返還後は公園として整備され、名古屋市美術館や名古屋市科学館が建設されました。
本町通と碁盤割
江戸時代の碁盤割名古屋城にいたる戦前の本町通は、広小路と並ぶ名古屋のメインストリートとして名古屋を代表する商家が競って店を構えた。広小路本町を過ぎると碁盤割にはいる。碁盤割とは、徳川家康によって東西は久屋通から堀川、南北は広小路から外堀通にいたる区域を碁盤の目に区画された地域を指す。家康は、ここを町人の住居とし回りを武家屋敷で囲んだ。さらに正方形の区画の中心に寺院を建設、住民の監視に当たらせた。名古屋人の質素、倹約、一方で盛んな生け花や茶道など内向きな文化は築城時の都市計画に起因するとも考えられる。
名古屋宿の中心「札の辻」
札の辻 - 尾張名所図会碁盤割に入り伝馬町通りと交差する、現在の伝馬町本町で美濃路と本町通は分岐する。「札の辻」と呼ばれ名古屋宿の中心となっていた。本陣や脇本陣は置かれなかったが、高札場や荷物の運搬に必要な人馬を継ぎ立てる伝馬会所が設けられた。またここは、木曽街道、下街道、岡崎街道、東海道、美濃路に分岐する交通の要衝であった。美濃路はここを左手に折れ堀川をめざして進む。
名古屋の街と堀川
伝馬橋と堀川伝馬町本町の交差点から約850m、途中国道19号線を跨ぎ西へ進むと堀川に架かる伝馬橋にさしかかる。伝馬橋を渡ってすぐの道を右に曲り堀川に沿って北に進む。堀川は名古屋城建設とともに家康の命により、福島正則によって開削された運河で、熱田から名古屋城(建設当初は幅下、朝日橋まで)まで通じ、名古屋城下に物資を運ぶ重要な運河であった。現在は、名古屋港から水分橋の手前で庄内川につながっている。
四間道と円頓寺界隈
四間道に並ぶ土蔵円頓寺商店街浅間神社から円頓寺商店街へ通じる400m程の区間を通っている四間道は、美濃路の1本西を平行するように走る。
中橋と五条橋(堀川七橋)にかけての堀川沿岸には多くの商家が立ち並び美濃路をはさんで裏手の四間道の東側に土蔵が建てられた。火事に備えて道幅は四間(約7m)に拡張された。現在でも、白壁・橦木町界隈とならび江戸時代の風情を感じさせる貴重な空間である。円頓寺商店街も昭和時代の香りを残している。
新道筋の西寺町
海福寺宝周寺西願寺北に進み、外堀通を渡って200mあまり幅下二丁目の交差点を左折、幅下小学校の角を右に曲り北上すると国道22号線と交差する。国道22号線を超え150mほど行った城西1丁目の交差点を左折し、樽屋町(現在の浅間町)を通り押切町へと進む。樽屋町には大木戸があり、名古屋城下西の入口となっていた。また、美濃路と交じわる新道筋の西側には、海福寺、宝周寺、法蔵寺、西願寺、正覚寺などの寺院が立ち並び西寺町を形成していた。
白山神社の立場
白山神社にある笈瀬橋の標柱白山神社前を通る美濃路押切北の交差点から300mほど行った美濃路の北側に白山神社(榎権現)の山門が現れる。このあたりは、宿場と宿場の間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まる立場があった。かって白山神社の西には、笈瀬川が流れ川に架かる笈瀬橋の標柱の一部が白山神社の塀の一部となっている。白山神社の北、県立名古屋西高校の一帯に3万坪をゆうに超える尾張藩の重臣志水甲斐守の広大な下屋敷があったという。
関連動画
清洲城と碁盤割
清洲越しの経緯と徳川家康による名古屋城下建設の様子を、名古屋の郷土史家、沢井鈴一氏に語っていただきました。