法華寺町禅寺町全図 (尾張名所図会)
この図会は西から見た様子が描かれていて、左が北になっています。画面の左から右へ2本並行して走る道が法華寺町筋(上)と禅寺町筋(下)。その両脇には中小の寺院が並んでいます。図の中央付近で法華寺町筋、禅寺町筋に交差する道が飯田街道(駿河街道)です。北西から南東に八事方面へ向かっています。画面の左上には御下屋敷(現在の車道のあたり)がかすかに見えています。
飯田街道(駿河街道)と東寺町
名古屋城下図(江戸時代後期)徳川家康は名古屋城下を防備するため西、南、東に寺町を建設しました。その一つ東寺町は駿河町を起点とする飯田街道(駿河街道)に交差する禅寺町筋と法華寺町筋に沿って寺院群が構成されていました。北は現在の桜通、南は瓦町あたりまでにまたがり、大きな門前町を形成していました。
飯田街道は八事を経由し途中分岐して中山道や家康のルーツ岡崎に通じる街道として重要視されました。
尾張名所図会は平行して伸びる禅寺町筋と法華寺町筋に並ぶ中小の寺院群を西から俯瞰して描いています。
昭和初期までは江戸時代のたたずまいを残していましたが、戦後名古屋の都市化とともに寺院の移転や敷地の大幅な減少が起こり、現在ではビルの谷間に寺院が埋まって点在しています。
尾張名所図会と当時の地図を参考に壮大な寺院群をイメージして散策するのも楽しいことだと思います。
東寺町の変遷(江戸から昭和初期)
東寺町の町並みは、太平洋戦争下、昭和20年の空襲によって消失するまで原型をとどめていました。
戦後、急速な都市化によって町並みは大きく変遷しました。(下の地図参照)
江戸地図と現代地図を重ねてみる
東寺町周辺を現代地図と江戸時代の地図で重ね合わせてみました。
写真マップ
東寺町に現在も残っている寺社を地図上に配置しました。