相羽英勝 豊明市長― 豊明市の概要
三河と尾張の境に境川があり、刈谷市から境川を越え、豊明市に入ると尾張になります。
豊明は、30年代から40年代の半ばにかけて名古屋のベッドタウンとして成長し、拡大し人口が増えてきました。
昭和47年の8月に豊明町から豊明市となり、市制がひかれました。昭和50年代から少しづつ民間の企業が増え、現在では、新左山工業団地などができました。
また鉢物花き市場として全国有数の取り扱い量を誇る「愛知豊明花き地方卸売市場」や中京競馬場などが市内に点在しています。
―「有機循環型社会」への取り組み
豊明市沓掛堆肥センターでの生ゴミ堆肥化作業.「生ごみ供給ホッパー」で粉砕され籾殻などと混ぜられた生ゴミがベルトコンベアで運ばれていく「とよあけEco堆肥」で作ったスイカと生産者のひじ方勝さん(「ひじ」の字は「土」の字の横棒の間、真中縦棒の右側に点がつきます)(豊明市の)前身は農業ということで有機循環型の社会をつくっていこうと思い、平成11年から有機堆肥をつくってまいりました。
家庭で消費をされる生ごみを、市民から収集して堆肥化をする。最初は830世帯くらいで始めたんですが、昨年(2008年)10月には8000世帯まで増えてまいりました。この堆肥を市民に返す、農業に返す、あるいは1坪農園に返す。生ごみ堆肥を使って生産した野菜を市役所の近くの直販所で販売しています。
―「桶狭間の戦い」から450年
自分で作った段ボール製の甲冑を着て歩く子供たち豊明市は、桶狭間古戦場があるところで知られています、毎年6月初旬には桶狭間古戦場まつりが開かれます。
豊明市には、甲冑同好会があり、ダンボールを使って鎧(よろい)、兜(かぶと)を手作りで作っています。桶狭間古戦場まつりの6ヶ月も前から同好会のみなさんが子供たちを集めて、自分たちで着る鎧、兜を自分たちで作ります。このことは情操教育とか歴史文化の教育に大いに役立っていると思います。いま甲冑同好会のみなさんは、引き手あまたで、あちこちの地域の方から教えてほしいと依頼を受けています。
来年(2010年)は、桶狭間の戦いから450年目を迎えますので、甲冑同好会のみなさんもひとつの集大成の鎧、兜を作って450周年を飾っていただきたいと思っています。
豊明市ガイドマップ
「有機循環型社会」への取り組み
豊明市沓掛堆肥センター生ゴミ堆肥化施設「豊明市沓掛堆肥センター」は平成18年4月から稼働しています。
この施設は、これまで可燃ゴミとして処理されていた家庭から出る生ゴミを、有機資源として良質な堆肥へと生まれ変わらせる施設です。
家庭の生ゴミから堆肥を作り、その堆肥を土壌に還して食物を育て、それを食べて出た生ゴミを再びこの施設で堆肥にする。このように有機的に循環するシステムの構築を目指して、この施設は作られました。この施設で作られた堆肥は「とよあけEco堆肥」として商品化され市内各所で販売されています。
JAあいち尾東の産地直売所に並ぶ「のぶながくん」のシールの貼られたカボチャ豊明市は2009年3月より「とよあけEco堆肥使用農産物認証制度」を設け、「とよあけEco堆肥」を使用した農産物に対して、豊明市のPRキャラクター「のぶながくん」のシールを付け、ブランド化に力を入れています。
「とよあけEco堆肥」を使うことで、農薬の使用回数や化学肥料の窒素成分量を抑え、安全でおいしい農産物作りを目指しています。
愛知豊明花き地方卸売市場
セリの風景愛知豊明花き地方卸売市場は1996年(平成8年)、観賞用植物を専門に取扱う市場として豊明市に開設されました。
愛知豊明花き地方卸売市場の前身となる市場は、切花市場しか存在しなかった当時の日本に、初めて観賞用植物を専門に取扱う市場として1959年(昭和34年)に誕生しました。
以後、豊明へ移ってからも含め、約半世紀にわたって花きの専門取引を行っています。中でも、鉢花・蘭鉢等、観賞用植物の取扱い量は、日本はもとより、アジアで最大、世界でも第五位の規模を誇る花き卸売市場です。
毎週月曜と木曜の週2回、朝8時から鉢物のセリ取引が実施されています。
桶狭間古戦場まつり
列をなす今川軍の武者たち桶狭間古戦場まつりは毎年6月に開催されています。
沓掛城址では午前中、太鼓の演奏、火縄銃の発砲、棒の手などが行われます。
午後2時30分頃より舘小学校から桶狭間古戦場伝説地(高徳院前)まで武者行列が行われます。段ボールで手作りした甲冑を身にまとった武者達が信長隊と今川隊の2隊に別れて練り歩きます。行列は高徳院雲上ホール駐車場の主会場へと上っていきます。
武者行列が主会場へと到着すると、桶狭間の合戦再現劇が行われます。毎年、今川義元、織田信長、家臣や姫役を一般参加者が演じています。講釈師が話す物語の進行に合わせて出演者が立ち回り、合戦劇が見事に再現されます。
桶狭間の戦い
永録3年(1560年)5月12日(旧暦)甲斐の武田、小田原の北條と同盟を結んだ今川義元は、2万5000人の軍を率いて尾張への侵攻を開始しました。
今川勢は海に面した鳴海城(名古屋市緑区)城主に岡部元信、大高城(名古屋市緑区)の守備を鵜殿長照がつとめ、両城は信長攻撃の前線基地としての役目を果たしていました。
これに対して織田信長は鳴海城のまわりに丹下砦(織田信平・飯尾定宗・信宗父子が守備)、中島砦、善照寺砦(佐久間右衛門信盛とその弟左京助が守備)を鳴海城攻略のため築き、大高城に対しては丸根砦(織田勢佐久間盛重以下が守備)、鷲津砦(織田信平・飯尾定宗・信宗父子が守備)を築き兵糧攻めを行いました。
5月17日(旧暦)、桶狭間から北西4キロの沓掛城まで進んだ今川本隊は、大高城に兵糧を送るための先兵として松平元康(のちの徳川家康)を派遣。松平元康隊は大高城に兵糧を届けた後、丸根砦を攻撃し攻め落としました。また、今川勢の朝比奈泰能らは鷲津砦を攻略し落城させました。
丸根砦・鷲津砦落城の報を清須城で聞いた織田信長は、今川の大軍を前に篭城を主張する家臣らの意見をしりぞけ、進軍を決意しました。
織田軍は熱田神宮を経由して桶狭間方面へ軍を進め、鳴海付近で今川軍と小競り合いをしたのち、善照寺砦・中島砦に結集します。
5月19日、丸根砦・鷲津砦攻略成功により勝利を確信した今川本隊は鳴海城を目指し、沓掛城を出発しました。しかし鳴海城へ向かう途中、猛暑による兵の疲労もあり桶狭間で休息をとることになりました。その知らせを受けた織田軍は、兵力が分散し手薄になった今川本陣を急襲。みごと今川義元の首級をあげ織田軍の勝利のうちに桶狭間の合戦は幕を閉じました。
合戦後、鳴海城主の岡部元信は、義元の首級と引きかえに城を明け渡し、大高城にいた松平元康(のちの徳川家康)は今川軍が放棄した岡崎城主として返り咲きました。
戦人塚は、桶狭間合戦における戦死者2500余人を、供養しています。