増岡錦也 瀬戸市長―「まるっとミュージアム」構想に込めた思い
陶の道のなかには「窯垣の小径」とか「小挟間坂(こばさまざか)の小径」とか「クラシックロード」とかそういう名称をつけて、焼き物にふさわしい産業観光の整備をしていった結果、面的な広がりになりました。
「フィールドミュージアム」といった言葉でもあったわけですよ。さらに広げると、もう「フィールド」というのは、ちょっと狭いなあ、地域全体「まるっと」。瀬戸弁で「まるっと」というとすべてですから。
周辺にある赤津とか、水野とか、品野とか、焼き物の歴史を物語る史跡がたくさんあるでしょ、工場があるでしょ、生活があるでしょ。それぞれの生活、工場をひとつひとつ捉えてみると焼き物の、産業の美術館なんですね。瀬戸市域全体がミュージアムになるんじゃないか。
市民の活力をどう得て行くかというところで「まるっとミュージアム」という共通の認識の中にみなさんが参加していけば高まりもできましょうし、広がりもできましょうし、戦略の要として「まるっとミュージアム」という言葉をターゲットにしているわけです。
窯道具でできた壁や垣根が連なる「窯垣の小径」― ニューセラミックとオールドセラミックの調和
オールドの焼き物は工芸としてとらえて、産業観光のなかの文化面を強調するとらえ方、一方瀬戸にはニューセラミックが非常にいま産業界の中に広がってますので、ニューセラミックというものとオールドセラミックというものを、どうやってうまく調和させて焼き物の産業に結びつけて発展させてゆくかがキーですね。
― 愛知万博後の市民の変化
博覧会(2005年愛知万博)を手作りで瀬戸市民がやったということです。瀬戸を訪れる人に対して接する、すばらしい心ができた。これが、これからの瀬戸にとって大きな観光産業としての支えにもなる。
成果として「もてなし」の心、これは誰も気づいてはないけれども、ほんとうにありがたい。市民の中にその心が広がったということは大きな成果だと私は思っています。
瀬戸ガイドマップ
せともの祭
せともの祭は、昭和7年、磁祖加藤民吉翁の遺徳をたたえる産業祭として開催されました。
毎年9月の第2土・日曜日に開催され、お祭り2日間は数多くの行事が開催されます。
なかでも「せともの廉売市」は全国津々浦々から数十万人の人出でにぎわい、全国でも最大の規模といわれています。
瀬戸商工会議所 せともの祭
瀬戸蔵
瀬戸蔵ミュージアムに再現された陶房(モロ)「瀬戸蔵」は、瀬戸蔵ミュージアムをはじめ、つばきホール、物販や飲食店舗、会議室など多くの市民や観光客が集まる「せと・まるっとミュージアム」の拠点施設です。市民会館の後継施設として作られました。
瀬戸蔵の2階と3階にある「瀬戸蔵ミュージアム」は、面積は、二つのフロアを合わせて約1,800平方メートル。
2階部分には、せとものの大量生産で活気のあった時代の瀬戸をイメージし、旧尾張瀬戸駅、陶房(モロ)、石炭窯、煙突などを配置しています。3階部分は、1000年以上の歴史がある瀬戸焼の変遷を全長30メートル以上の大パノラマ展示で紹介しています。
●開館時間 9時~17時(入館は16時30分まで)/令和2年4月1日(水)から
●休日 12月28日~1月4日・月1回程度臨時休館あり
●入館料 一般/520円(20名以上の団体410円/年間パスポート1570円)
高校・大学生・65歳以上/310円(20名以上の団体250円/年間パスポート940円)
中学生以下・心身障害者・妊婦の方は無料
岩屋堂公園
秋の岩屋堂岩屋堂の由来は、紳亀2年(725)名僧行基がこの地に草庵を結び、この岩窟内で三体の仏像を彫刻し、時の聖武天皇の病気平穏を祈願したのが始まりとされています。一体の薬師瑠璃光如来を本尊として、岩屋山薬師堂(通称 岩屋堂)が建立されました。小鳥たちも宝前に木の実を供えたとされそこから鳥原という地名になったと伝えられています。
夏には家族連れで川が賑わう。川の側にはプールもある岩屋堂公園は、1年を通じて豊かな自然を楽しむことができる愛知県内でも有数の人気スポットです。春には川沿いに並ぶ桜並木。夏には鳥原川をせき止めた天然プールで緑に包まれながら水遊びを楽しみ、バンガロー村ではバーベキューを満喫できます。秋には山一面の紅葉など四季を通じて楽しめる公園となっています。
尾張藩祖徳川義直候の廟所 定光寺
定光寺は、建武三年(1336年)覺源(かくげん)禅師によって創建された臨済宗妙心寺派の古刹です。
覺源禅師一行が修行のため瀬戸のみずのの里に立ち寄った際、大きな岩から光とともに仏様が出たり入ったりする夢を見た。そこであたり一帯を探してみたところ、夢に見た大きな岩を見つけ、岩の下から仏様が出てきた。そのため、「夢に応ずる山」応夢山(おうむさん)、「光が定めた寺」定光寺と名づけてここに開山したと伝えられています。
本堂は創建当時の姿をとどめており、春は桜、秋は紅葉の名所としてもよく知られています。
尾張藩祖徳川義直候の廟所境内奥には尾張藩祖徳川義直候の廟所があります。義直公が鷹狩りでこの山に登った際、自分の領国が一望できたいそう気入ったため、自らの墓をこの地に建てるよう命じたとされています。また、名古屋城の鬼門にあたるこの地に自らの墓を建て、徳川家がいつまでも反映するように、との願いを込めたとも言われています。
廟所は全体を銅板葺の塀で囲み、中国風の建築様式です。入り口の門は天井に狩野元信の龍の画がある「龍の門」、その門をくぐると正面に祭文殿(焼香殿)があります。これは高床式になっていて床には日本で最初の敷瓦(タイル)が敷かれています。墓は更に高い処にあり、十二段の石段上に唐門を置き、その向こうに土饅頭の上に高さ約四メートルの石塔が窺える。
定光寺を語る 宮田全裕副住職(上のインタビュー動画から書き起こした内容です。)
1336年、建武の3年覚源(かくげん)禅師という和尚さんによって建てられました。国の重要文化財に指定されております。
覚源禅師は鎌倉の建長寺で修行なさって、お弟子さんとともに雲水行脚の旅に出て全国をまわっておりました。そして瀬戸の水野の里、当時はここは何にも無い里だったんですが、ここに立ち寄って、昼は作務(さむ)労働、そして夜は夜座(やざ)といって夜の座禅をする修行をしておりました。
大きな岩から仏さんが出たり入ったりするという夢を、わたしも見た、僕も見た、和尚も見た、まあそういう話になりまして、この山一帯を探したところ、夢に出てきた大きな岩がありましたので、その岩をどかしたところ中から仏様が出てきた。これは、「お寺を建てろ」というお告げに違いないと思いまして、覚源禅師は「応夢山(おうむざん)」夢に応ずる山、「定光寺」光が定めたお寺という風に名づけて、ここにお寺を開祖したということです。
(尾張藩祖徳川)義直公が、鷹狩に定光寺の方まで来たときにこの山を登ったところ、自分の領国である尾張の国が一望できまして、たいそうこの場所を気に入って「自分が死んだらお墓を建てろ」という遺言を残されて亡くなっていきました。鬼門、北東の方は鬼が出入りすると、ここのお寺に自分の墓所を定めることによって「魔が来ないように」、「徳川家がいつまでも繁栄するように」、という思想も流れていると思います。義直公のお抱えの渡来僧で陳元贇(ちんげんぴん)という方がおりました。陳元贇(ちんげんぴん)の設計により中国風、儒教風の建物で、廟所、焼香殿が建てられました。
海上の森(かいしょのもり)
海上の森の里山海上の森は海上町を中心とした約600haの里山と森林からなっています。シデコブシや、オオタカなど絶滅危惧種の動植物に加え多様な動植物が生息しており、豊かな生態系が保たれています。
2005年の愛知万博では、海上の森とその周辺は「瀬戸会場」として、自然そのものが展示物というコンセプトのもと、自然保護団体や市民団体の展示スペースとして使用されました。
万博後も愛知万博の理念である「自然との共生」を象徴する場所として、「瀬戸愛知県館」が「あいち海上の森センター」として生まれ変わり、海上の森の保全と学習の拠点施設として活用されています。