【動画】徳川家康の都市計画 江戸・名古屋
徳川家康の江戸と名古屋での都市計画を、名古屋城調査研究センターの近世武家文化等の調査研究を担当されている原史彦氏にお聞きしています。
【動画】桶狭間合戦から長篠・設楽の原の戦い
【動画】空から見た名古屋市中区
【動画】NAGOYA INNOVATOR’S GARAGE
たまたま中部経済連合会さんと相談する中で、コアーキングスペースといいますかスタートアップを予定している人たちが、一緒に交流しながら活動ができる場所が必要だと言うことで、ナゴヤ イノベーターズ ガレージを始めました。スタートアップが成長してゆくためのエコシステム、環境整備をしてゆく必要があると考えて、イノベーター、起業家の人達に対してセミナーやイベントを行って、情報交換や交流の場を提供しています。また、大企業の方々とのマツチングを仲介することで共同で新しいビジネスを起こしてもらうような取り組みも行っています。人材育成もまた非常に重要だと思います。小学生、中学生、高校生対しての起業家教育を行っており、全国的に珍しい事例であると考えています。年少のうちから起業が選択肢になるような情報提供、教育を名古屋市経済局では推進してゆくつもりです。役所の考え方ですと、どうしても偏ることもありますので、民間と協同で進めたことで良い形になって来ていると感じています。
2017年頃、世界各国には新しい産業や新しい社会価値が生まれて来ていますが、中部地区全体を見まわしてみますと、そういった物がなかなか生まれていないという課題があり、この地区においてもイノベーションを起こしていかないと中部の十年後、二十年後を含めて持続的な発展がないと考え中部経済連合会のイノベーション推進部を立上げました。世界の潮流となっているオープンイノベーションに舵を切れるかというとなかなかむずかしいことです。オープンイノベーションを推進できるようなソフトを作ろうと思い、2018年、フューチャーコンパス、ビヨンザボーダーといったプログラムをつくることになりました。ビヨンザボーダーは人材育成プログラムですが、オープンイノベーションの手法を学んで、新たなビジネスを作り出す一つの手法として イノベーターを目指す方々に参加いただき開始されました。しかし、そういった方々が外圧に負けず活動できる場所が必要であるということで、2019年にナゴヤ イノベーターズ ガレージが開設されました。
新しいことをやられる方の環境として、施設の色んな場所に絵画や彫刻などを愛知県立大学の卒業生の中から当方のコンセプトを理解したうえで、イノベーションを触発するアートを毎年制作していただいています。メインの機能は、あくまで交流、滞留していただいてイノベーションを生むことです。人々が集まって勉強したり、共に制作し競う、またスタートアップ出会うようなイベント・プログラムを年間300位を提供しています。今、利益をあげている事業会社を、いかに新たなビジネスに変容させるかが課題となりますので、その一つの手段としてオープンイノベーションを推進しています。オープンイノベーションを学べる ビヨンザボーダーには、毎回いろいろな企業の方の参加をいただいており、参加者の満足度の高いプログラムになっています。
新たなビジネス、外から来る人たちが一緒になって競争しようとすると理系、文系と言ってる場合ではなくて、いかに融合するか必要です。そういった発想を学生の時から育てて行くかというのが、今すごく重要になって来ています。数学に長けているから世の中で勝てる時代では完全になくなっています。イノベーターズ ガレージも、アートも一緒に入れ込んでこれらが融合するマインドをはぐくむようなコンセプトで 作られていまし、学生からもそれを期待されています。
世の中がどんなことで困っているのか?スタートアップの用語ではペイン(pain)という言い方をします。ペインがどこにあるかをしっかりと見極めて進めないといけません。自分が思っているペインと、世の中の人が本当に思っているペインとが違ってくるとビジネスには育ってゆきません。世の中のペインを見つけ出すマインド教育の所から始めてゆくことが重要であると思っています。Tongaliというプロジェクトが始まっています。東海地区の大学の人達がそこに集って、一緒になってイノベーションを学ぶ活動が行われており、どんどんその枠が広がっています。
イノベーターズ ガレージができて3年が経ちました。色々なプロジェクトがスタートし、だんだんと色んな方が参加するようになりました。今度はその人たちがコラボレーションするのが重要であると思っていますので、新しく2022年7月にナディアパーク3階に開設された施設をコラボレーションエリアと位置付けてやっていこうと考えています。そのためには企業の方、スターアップの方、一般の方が集まってワイワイ ガヤガヤとやっていく風土が出来上がることが目標です。もう3年かけてその世界を作り上げて、ふと気が付くとここに沢山人が集まって、何かワイワイやってるような風土ができあがることを願っています。シリコンバレーでは幼稚園、小学校からそういったマインドを親や周辺が教えるといった風土になっています。小学校もしくは中学生から、このことを知らせるようなプログラマを徐々に立ち上げてますので、どんどん 参加していただき、「イノベーションをおこすぞ!」と構えることなく、普通に活動していたら新しいものが生まれるための場所としてこの場所がいかされればと思っています。
【動画】ウオーカブルなまちづくり
名古屋駅周辺のまちづくりは、名古屋市が今強力に進めており、今年度(平成4年度)、事業化が本格的に進みます。国家プロジェクトとして、国交省から国際競争都市整備事業に採択されましたので、国際都市名古屋にふさわしい玄関口としての駅前広場整備に入っていくタイミングになります。名古屋市では駅前だけではなく、容積率を緩和しながらハイグレードホテルや高品質のオフィス、低層店舗、にぎわいを誘導するような制度をつくりました。まずは再開発を契機に歩いて楽しい街中を作ってゆくのがベースとしてありますが、私は新しく就任して力を入れているのが既存の街並みを生かした、ウオーカブルな沿道界隈を作って行くという政策です。
名古屋の都心核といえば名古屋駅と栄になりますが、名駅と栄は何もしなくても、民間だけでもかなりの需要があります。しかし名駅と栄の間を見てみますと非常に魅力的な界隈がありながら、例えば従来がら力を入れている四間道、那古野地区など民間の力でかなりリノベーションが進んで来ていますが、きちっと公的セクターがしっかり下支えしながらエリア区切って集中的にリノベーションしてゆく。これによってウオーカブルな空間を作ってゆく仕組みつくりに力を入れています。
都市の魅力はウオーカブルにもつながりますが、水と緑をしっかり大事にしてゆくことが都市のポテンシャルという意味では、非常に大事だと思っています。私がいま力を入れているのが中川運河の再生を加速化することです。中川運河の堀留周辺をにぎわいと水辺のターミナルとして再生することに取り組んでいます。また、中川運河の沿岸が倉庫利用が中心になっています。諸外国では運河を活かしたまちづくりが 沢山おこなわれています。中川運河はそのポテンシャルがありますので、倉庫利用からにぎわいの利用へ変えてゆく。プロムナードを整備することで中川運河に皆さんがアクセスしやすく歩けるような空間づくりも現在行っています。
ポストリニアとして新しい拠点を作ってゆくことが大変重要だと思っています。一つの拠点は、三の丸地区だと考えています。三の丸エリアは、地権者が国、県、名古屋市の三者だけの公有地となっています。この公有地を活用して、いかに賑わいと潤いのある魅力的なエリアを作っていくのかは、ポストリニアの課題として重要だと思っています。官庁街の庁舎も随分老朽化していますので、これを契機に建替時期に新しい賑わいの機能、潤いの機能をどのように加味することが、新しい拠点づくりには必要であると思います。
国際都市として様々な海外の方々が、名古屋を起点に東京、大阪また全国に向かうことになるので、そういった観点での駅前づくりや名古屋のまちづくりを進めてゆくことが、日本の魅力にとっても大変大事です。我々はスーパーメガリジョンの中心と言ってますが、これはあながち間違いではありません。名古屋駅と品川駅が開業し、大阪に延伸されるまでの間は名古屋が終着点になります。これまで名古屋を訪れてなかった方や京都に行く方で名古屋にワンストップする方も必ず出てきます。こういった方が名古屋は凄いということになり、それが圏域の魅力につながることで、これであれば名古屋のオフィスを構えて東京、大阪はサテライトで良いといった圏域づくりが、名古屋が最終的にめざすべき所ではないかと考えています。
【Video】Nagoya Castle Area Walking Map
In 1600, the Battle of Sekigahara took place and the eastern army led by Tokugawa Ieyasu won.Ieyasu's fourth son, Matsudaira Tadayoshi participated in this battle, fought hard, and took credit for it. Ieyasu recognized his merits and gave him 520,000 goku in Owari andMino provinces and appointed him lord of Kiyosu Castle. However, he passed away at the young age of 28, partly due to injuries sustained in the Battle of Sekigahara. Ieyasu appointed as his successor Tokugawa Yoshinao, Ieyasu's ninth son and lord of the Kofu domain, who was still a child.
In 1603, Ieyasu became Seii taishogun, commander-in-chief of the expeditionary force against the barbarians and established the Edo shogunate. He was preparing for a decisive battle against the Toyotomi family based at Osaka Castle, and proceeded with plans to relocate from Kiyosu, a low marshy area and vulnerable to defense, as a full-line base of defense. The site chosen was the northern edge of the Nagoya plateau, where the former Nagoya Castle, the residence of the Oda family, once stood.The west and north sides of the Nagoya plateau were cliffs, and the marshy lands below the cliffs were suitable for defense. Daimyo lords from the western and northern provinces were mobilized to begin construction of the castle in 1610. The Honmaru, where the large and small castle towers and the Honmaru palace are located, was in the center, with the Nishi-no-maru to the southwest, the Ofuke-maru to the northwest, and the Ni-no-maru to the southeast. Further to the southeast, there was the vast San-no-maru area, where the residences of important vassals, temples, and shrines were located. At the same time, the castle town was relocated from Kiyosu, known as "Kiyosu-goshi".
In 1615, the Toyotomi family was destroyed in the Osaka Winter and Summer Campaigns. Nagoya Castle changed its role from a military base to the administrative center of the Owari clan. The Honmaru palace was later used exclusively for the Shogun's visits to Kyoto, and the Ninomaru palace, which served both as the residence of the feudal lord and as the domain office, was newly constructed.
In 1873, the Nagoya Garrison (reorganized as the 3rd Division in 1888) was established in Nagoya Castle. The Ni-no-maru palace and the residences of the chief vassals in San-no-maru area were demolished, and army barracks and other structures were constructed.The Honmaru palace was used as the Garrison headquarters until 1887. Thereafter, there were calls for its preservation both at home and abroad, and in 1879 it was decided to preserve the castle tower, palace, turrets, and other structures.
The cost of preserving and maintaining Nagoya Castle was enormous, and the Ministry of the Army was troubled by the expense for nonmilitary purposes. Because of these circumstances, it was decided in 1891 that Nagoya Castle would be transferred from the Ministry of the Army to the Ministry of the Imperial Household.However, in 1891, the Nobi Earthquake occurred and Nagoya Castle was severely damaged.The transfer to the Ministry of the Imperial Household was postponed due to the need for restoration work, and in 1893, it was placed under the jurisdiction of the Ministry of the Imperial Household and used as the Nagoya Imperial Villa.
In 1929, the National Treasure Preservation Law was enacted and the Nagoya Imperial Villa was designated as a National Treasure. In 1930, the land and buildings of the Nagoya Imperial Villa were given to Nagoya City by tthe Ministry of the Imperial Household, and Nagoya Castle was designated a national treasure.
On May 14, 1945, at the end of the Pacific War, Nagoya was hit by an air raid. The main keep, the small keep, the Honmaru palace, the northeast corner turret, the main gate, and the golden dolphins were destroyed by incendiary bombs. Fortunately, the Honmaru palace barrier paintings were removed and stored in a warehouse, thus escaping destruction by fire. The Honmaru Goten barrier paintings are now designated as Important Cultural Properties under the Law for Protection of Cultural Properties (enacted in 1950).
Nagoya Castle was reborn as an urban park as part of the postwar reconstruction plan.In 1959, Nagoya Castle's keep was rebuilt with a steel-reinforced concrete structure.The restoration of the Honmaru palace began in January 2009 and was completed in 2018.It has been open to the public since June of the same year.
【動画】名古屋城ウオーキングMap
1600年、関ケ原の戦いが起こり徳川家康率いる東軍が勝利した。家康の四男松平忠吉は関ケ原の戦いに参戦、奮戦し手柄を立て、家康はその論功を認め、忠吉に尾張国および美濃国に52万石を与え、清州城主に任命した。しかし忠吉は関ケ原の戦いでの負傷もあって若干28歳の若さで逝去。家康は、松平忠吉の後継としてまだ幼少であった家康の九男で甲府藩主の徳川義直(幼名は五郎太丸)を清州城主に任命した。
1603年、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。家康は大坂城を拠点とした豊臣家との決戦を控え、防衛の全線基地として低湿地で防備に弱い清州からの移転を計画を進めた。選ばれたのは、かっての織田家の居城那古野城があった名古屋台地北端。名古屋台地の西と北は崖となっており、崖下には湿地がひろがっており防備には適した立地であった。西国や北国の諸大名が動員され1610年、築城が開始された。大小の天守閣と本丸御殿が建つ本丸を中心に、南西に西之丸、北西に御深井丸、南東に二之丸を配置。さらにその南東を広大な三之丸が囲む縄張りである。あわせて、「清州越し」と呼ばれる城下町の移転も行われた。
1615年、大阪冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅亡。名古屋城は軍事基地としての役割から尾張藩の行政の拠点へと性格を変えていった。本丸御殿はその後、将軍上洛専用の御殿となり、新たに藩主の住居と藩庁機能を兼ねた二之丸御殿が建設された。
1867年10月の大政奉還で徳川幕府が朝廷に政権を返還。1868年明治政府が誕生した。名古屋城は陸軍省の所管となり、政府は城郭処分の検討が行われた。名古屋城も一旦は取り壊しが検討され金鯱が天守からおろされて、全国の博覧会やウイーン万国博覧会に出品され好評を博した。
1873年、名古屋城内に名古屋鎮台(1888年、第三師団に改編)が置かれることになり、これに合わせて二之丸御殿や三之丸にあった重臣の屋敷などが取り壊され陸軍の兵舎などが建設された。本丸御殿は鎮台本部として1887年まで使用された。その後、内外の保存要請の声もあり1879年、天守閣、御殿、櫓等保存が決定した。
名古屋城の保存維持に関する経費は膨大で、陸軍省は軍用目的以外の支出に頭を悩ませた。そこで、宮内省への移転が検討され1891年、宮内省へ移管される事が決定した。しかし、1891年濃尾地震が発生、名古屋城も被害を受け、復旧工事が必要となった。このため宮内省へ移管は延期され、1893年、宮内省の所管となり名古屋離宮として活用されることになった。
1929年に国宝保存法が制定され、名古屋離宮がその対象とされた。1930年、名古屋離宮の土地建物は宮内省から名古屋市へ下賜され、名古屋城の大天守、小天守、西南・東南・東北・西北隅櫓、表一之門、表二之門、東一之門、東二之門、不明門、正門、御殿は国宝に指定された。翌年に、名古屋市は一般公開を開始した。名古屋城の正門前の広場に「恩賜元離宮名古屋城」と刻まれた石碑が建っている。また、本丸御殿障壁画も1942年に国宝に指定された。
太平洋戦争末期の1945年5月14日、名古屋大空襲によって大天守、小天守、本丸御殿、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。本丸御殿障壁画は取り外されて倉庫に保管されており焼失を免れた。戦後の 1950年に制定された文化財保護法により、重要文化財に指定されている。
戦災の被害を受けた名古屋城一帯は、戦後の復興計画の一環として都市公園として活用された。1959年、名古屋城の天守閣が鉄骨鉄筋コンクリート構造で再建された。また、2009年1月から本丸御殿の復元工事が開始され、2018年に完成し同年6月より一般公開されている。
Nagoya Station Area Walking Map
The area around Nagoya Station is being developed in preparation for the opening of the Linear Chuo Shinkansen Line.This video is presented from a pedestrian perspective using a stapilizer and drone.The spots to be introduced are the East and West exits of Nagoya Station, Sasashima Live, Sasajima, and the Sky Promenade at Midland Square.
The east side of Nagoya Station is lined with skyscrapers such as JR Central Towers and Midland Square.In addition, the Linear Chuo Shinkansen Nagoya Station is under construction on the west side of Nagoya Station.Sasashima Live is a redevelopment of approximately 12.4 hectares on the site of the former Sasajima Freight Station of Japan National Railways, and is a complex town including a hotel, commercial facilities, a university, and a broadcasting station.Sasashima is the birthplace of Nagoya Station, where the Tokaido Line Nagoya Station was built in 1886.Later, as the population of Nagoya City grew, it was moved to its current location in 1937.At the end of December 1999, JR Central Towers, attached to Nagoya Station, opened and became a pioneer in the construction of skyscrapers in the years to come.You can enjoy a panoramic view of central Nagoya from the Sky Promenade, an outdoor observation facility at Midland Square.
【動画】名古屋駅ウオーキングMap
リニア中央新幹線開通に向けて開発の進む名古屋駅周辺を、スタピライザーとドローンを使用して歩行者目線で紹介します。ルートは泥江町(ひじえちょう)を起点に桜通を西に名古屋駅東口に進み、名古屋駅東側を紹介、地下街を通って名古屋駅の西側太閤口に出て、町並みや現在進行中のリニア中央新幹線名古屋駅工事などを紹介しています。
あおなみ線は名古屋駅を起点に金城ふ頭に至る鉄道。あおなみ線で「ささしまライブ」に進みます。ささしまライブは旧国鉄笹島貨物駅跡地の約12.4ヘクタールを再開発した、ホテル、商業施設、大学、放送局などを含む複合タウンです。ささしまライブを後に、名駅通を北上し笹島に進みます。笹島は名古屋駅発祥に地。明治19年(1886)、沼地と田んぼであった笹島に名古屋駅が開業しました。その後、名古屋市の人口増大とともに、貨客分離が求められ、昭和12年(1937)、現在地に移転されました。1999年12月末には名古屋駅に併設されたJRセントラルタワーズが開業、以後の超高層ビル建設の先駆けとなった。中部地方で最も高いビル(247m)ミッドランドスクエアの屋外型展望施設「スカイプロムナード」からは名古屋中心部が一望できます。